「桜の樹の下には」。

ごく単純な思いで、柴田俊一著『新 原子炉 お節介学入門』(2005年、一宮事務所刊)を読む。
”次代に何を残せるか。戦わないで得られる、将来の「国産エネルギー」のための体験的基礎講座”、とサブタイトルにある。
何も、原子炉の構造や臨界のことを知ろう、というワケではない。正確に言えば、読んだワケではない。斜めに読み飛ばしていった。
著者の柴田俊一なる人、1924年生まれ、もう90歳近い方である。原子炉との関わりは、半世紀以上前から。京大原子炉実験所長や近大原子力研究所長を長く務めた、原子炉工学の専門家である。京大の名誉教授でもあるが、どうも、世代もあるのか、国の原子力委員会などのような組織に与する学者とは、少し立場を異にするようだ。
この書自体、京大で実験炉を作るところから、京大退官後、近大での原子炉を、といういわば思い出話ではある。専門的なことを一般の人たちに解かりやすく、という思いで書いたもの、と取れる。たしかに、そうである。サブタイトルでも解かるように、原子力こそ、と考えている人なんだ。
原子炉屋と称する柴田俊一さん、マーフィーの法則も引き、原子炉に完全はない、と言っている。故障、破損は避けられない、とも言っている。原子炉の安全性にも言及している。
実は、この書を斜め読みした私、津波の記述を探していた。だが、津波に関する記述は、一か所もなかった。地震、という言葉が出てきたのも、ほんの数か所のみ。臨界事故や重水がどうこう、という記述は出てくる。しかし、津波に関する記述はゼロ。
何も柴田俊一さんに限らず、原子炉の専門家の意識、那辺にありや、ということよく解かる。
夕刻、いつもとは反対の方の喫茶店へ行く。
15分ばかり歩く。そこにも小さな公園がある。

5時を過ぎても、ずいぶん明るくなった。2〜3日前には満開であった桜木、花を落とし始めている。その向こう、はるか彼方には、白い月が見える。
桜花の上に、白い月。
上弦の月から満月へ、丸みを帯びた白い月。


夕刻の太陽の光が当たっているところと、そうでないところ、桜花の色も微妙に異なる。
<桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ>。

<ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!>。
80年以上前、梶井基次郎が描いた世界。今年の三陸、そうなった。