唐招提寺金堂三尊(続きの続き)。

和辻哲郎は、唐招提寺金堂の千手観音について、こう書いている。
<ことに右の脇士千手観音は、自分ながら案外に思ふほどの強い魅力を感じさせた。確かにこヽには「手」といふものの奇妙な美しさが、十分の効果をもつて生かされてゐる>、と。和辻哲郎の『古寺巡禮』は、大正7年に奈良の寺を巡った時の印象記。
それから100年近く経った今でも、千手観音の魅力は、手に尽きる。一昨日のBSTBSの「遷都1300年 唐招提寺物語」の最終回、今日は、そこから千手観音立象の印象深い画面を引く。

平成の大修理の前の千手観音。像高5メートル36センチの木心乾漆仏である。
今回の解体修理にあたっては、写真や映像はもちろん、レーザーで3日毎に計測し記録した、という。脇手の取り外し、数十本に1回の計測、となるらしい。10年後の取りつけ時に、仮に別の人が担当しても、キチンと元通りに取りつけられるように、という配慮だそうだ。

大正時代に撮られた写真があった。

このようなものも。左下の方には、「三二ノカゲニ手首ナキモノ一本八〇トス」、とか、「五七ハカリニカキシガ手首ナシ」、と手書きされている。
和辻哲郎の『古寺巡禮』に、こういう個所が出てくる。
<・・・・・わたしはこの「手」の奇妙な感じをすでに一年前に経験したのだからである。その時には観音のまはりに足場が築いてあつて、観音自身は白い繃帯に包まれてゐた。さうしてこれらの千の手は、一々番號の紙ふだをつけて、講堂の西半の仕事場一面にならべてあつた。・・・・・>、という記述が。
ということは、大正7年の前年、大正6年に和辻が訪ねた時には、千手観音の解体修理をしていた、ということだろう。千本の脇手を外しての修理が。TBSの放送ではそういう説明はなかったが、上の位置確認のためであろう手書きの図も、おそらく、その時のものであろう。

記録を取り、脇手を1本1本注意深く外していく。
外した脇手には、識別番号を付けていく。これは、100年近く前と同様だ。

手に持っている外した脇手に黒っぽく見えるのは、釘穴である。
取りつける時には、これを利用する。新しい釘穴を開けないのが鉄則だ。

唐招提寺の境内に造られた大きな保管庫に納められた千手観音立象。大脇手の内、8本を残し、すべての脇手を外された千手観音である。
左は、やはり金堂から移された薬師如来立象。

床に、本体を中心にして、外された脇手が並んでいる。壮観だ。美しい。
唐招提寺金堂の千手観音、本来は、1000本の手を持つものに造られたらしい。今、残っているのは、小脇手が911本、大脇手が40本、それに、合掌をする両手を合わせ、合計953本である。

X線写真も撮る。

ずいぶん多くの釘が打たれている。
造仏されてより約1200年、その間何度か修理の手が入っている。その時代時代の釘が混じっているそうだ。

いわば和釘鍛冶、ともいうべき匠がいる。現代でも。白髯をたくわえた老人であった。この人が、1本1本釘を打つ。
頭の曲がったこの釘が、天平期に用いられていた和釘だそうだ。さらに、漆を塗り焼く。焼き漆、というそうだ。強度が増すのだろう。匠の技、手がこんでいる。

2008年11月から、脇手の取りつけが始まる。

約5カ月をかけ、すべての脇手の取りつけは完了する。
手首に付けられた識別番号ばかりでなく、映像やレーザーでの測定記録をもとにして。

平成の大修理が成った金堂の中、修理復原された千手観音である。

最後に、今一度、和辻の言葉を引いておこう。
<「手」の交響楽・・・・・この交響楽が、人の心を刺激し得る各個の音とその諧和をもつて・・・即ち何らかの情緒を暗示せずにはゐない一々の手とその集団から起こる奇妙な印象とをもつて・・・観音なるものの美を浮び出させてゐるのである>、という一節を。
何やら、解かるような、解からないような、少なくとも、文章としては解かり難いものではあるが。
まあ、それでも、解かるといえば解かる。このアングルの観音の手を見れば。