奈良の寺(3) 法隆寺。

西ノ京から斑鳩へ。
さほど離れているわけではない。近鉄とバスで。
法隆寺。
推古15年(607年)、聖徳太子が、父君・用明天皇の遺願を継いで建立された。世界最古の木造建築だ。
おそらく、東大寺とならんで日本人の誰でもが知っているお寺の双璧だろう。
入口で貰ったパンフレットには、国宝、重要文化財に指定されたものだけでも約190件、2300点に及ぶ、と書かれている。あちこち国宝と重文だらけ、半端な数じゃない。もちろん、日本最初のユネスコ世界文化遺産、ともある。

法隆寺の玄関、ともいえる南大門。
深みのある、落ちついた趣きの門だ。
この門は、さほど古くはない。永享10年(1438年)、つまり、室町時代に再建されたものである。それでも、和辻哲郎は、こう書いている。
<南大門の前に立つともう古寺の気分が全心を浸してしまふ>、と。
まあ普通、我々凡人には、こうは書けない。”全心”とは。こういう言葉も知らない。しかし、思索をする人にとっては、”身”よりも、“心”なんだな。

南大門を通して向うを見ると、中門があり、その後ろに、五重塔が見える。

<門を入って・・・・・古い中門を望んだ時には、また法隆寺独特の気分が力強く心を捕へる>、と和辻が言う、中門。
飛鳥時代の建築である。重厚な門の左右には、塑像の金剛力士像が立つ。
東大寺南大門の金剛力士像よりは小ぶりであるが、迫力ある仁王さまである。和銅4年(711年)に造られた。我国最古の金剛力士像だ。

阿形。

吽形。

法隆寺、西院伽藍。金堂と五重塔。
<あの中門の内側へ歩み入って、金堂と塔と歩廊とを一目に眺めた瞬間に、サアアッといふやうな、非常に透明な一種の音響のやうなものを感じます>。さらに、<次の瞬間にわたくしの心は「魂の森のなかにゐる」といったやうな、妙な静けさを感じます>。
もちろん、和辻哲郎の言葉。私は「ああ、法隆寺だな」、とは思ったが、”音響のやうなもの”も”魂の森のなか”とも感じなかった。残念なことながら。
また、和辻哲郎、唐招提寺の金堂と法隆寺の金堂を比較し、こういうことを言っている。
<唐招提寺の金堂が「渾然としてゐる」と云へるならば、この金堂は偏執の美しさを、−−情熱的で鋭い美しさを、持ってゐるとも云へる>、と。
和辻哲郎の言うことに、「そうだ、オレもそう思う」、と言えないところが少しシャクだが、仕方がない。私が言えるのは、「オレは、唐招提寺の金堂のほうが好きだな」、ということだけ。
金堂内の須弥壇には、飛鳥彫刻を代表する釈迦三尊像をはじめ、多くの飛鳥、白鳳期の仏教彫刻の名品が並んでいる。
止利仏師が造ったこの釈迦三尊像、聖徳太子に似せて造られたもの、と言われる。つまり、この仏さま、お釈迦さまでもあり、聖徳太子でもある。釈迦三尊、えもいえぬ、不思議な微笑みをたたえている。
ところが、金堂に入った和辻哲郎、仏像彫刻にはあまり筆をさかず、その目は壁画に注がれる。特に、あの阿弥陀浄土図へ。
この時の和辻の訪問、大正7年のこと。もちろん、壁画が焼失する前だ。和辻が、美しい阿弥陀浄土図に多くの紙数を割いているのは、よく解かる。
和辻哲郎の思索、そして、筆、だんだん日本美術と、中国(和辻は、シナ、と表記しているが)美術、インド美術、そして、ギリシャ、さらには、ペルシャ、西域も含めた美意識の問題へと進んでいく。阿弥陀浄土図の脇侍の菩薩像とアジャンターの壁画の菩薩像の相似も含めて多くの考察を加えている。
10数年前になるが、アジャンターの石窟寺院を見に行った。人里離れた山の中に穿たれた多くの石窟、素晴らしい石窟寺院である。多くの仏教美術がある。あのよく知られた二人の菩薩の絵も含め。しかし、法隆寺の阿弥陀浄土図の二人の菩薩と、アジャンターの二人の菩薩は、顔形は似ていないこともないが、ずいぶん違う。法隆寺の金堂壁画(もちろん、私が見ているのは、写真で、であるが)の菩薩のほうが、はるかに優美である。何より、繊細。静かな美しさがある。
ところで、長い記述の、和辻の東西美意識についての考察、少し乱暴に結論づけると、こうである。
<日本とギリシャとはかなり近椄してゐる>、と。

五重塔。
五重目の平面が初層の半分の大きさになっているので、とても安定感がある。
美しい塔だ。和辻は、動的な美しさ、ということを書いている。

法隆寺といえば、廻廊の美しさを忘れることはできない。
エンタシスの柱と、連子窓。何とも言えぬ美しさ。

廻廊の柱。
その表面、趣きがある。なにしろ、1400年もの時間をただじっと、ここで、生きてきたのだから。

傷んだところを直している柱も多い。

こういうものも。

東室と妻室。
もちろん、国宝と重文だが、元は、お坊さんの住居。生活の場であったそうだ。

宝物庫である鋼封蔵を支える多くの柱。たくましくも、美しい。

妻室と鋼封蔵の間の道を入って行くと、大宝蔵院がある。平成10年に造られた。
玉虫厨子も、夢違観音像も、その他多くの宝物がここに納められている。
別格の宝物、百済観音は、この中に更に、百済観音堂を設え、そこにお一人で立っておられる。
久しぶりにお目にかかった百済観音、柔和なお顔、緩やかにS字を描く優美な姿態、改めて、その美しさを感じた。嬉しかった。
この後ここで、和辻哲郎『古寺巡禮』の、百済観音に関する和辻の考察を引こうと思っていたが、今日は、これまでとする。続きは明日。
眠くもなったが、それよりも、実は、和辻のこの百済観音についての記述、とても不思議なんだ。こんがらがる。だから、このまま、明日にする。
明日は、病院へ行く日。帰った後、ここへ書きたそう。
病院、さしたる変化はなかった。そりゃそうだ。3カ月前に撮ったCTと、今日撮ったCTに何らかの変化があれば、如何に鈍感な私でも、今後の事、多少は考えねばならない。
それはともかく、昨日の続き、書き継ごう。
昨日、眠くもなったが、百済観音についての和辻哲郎の言っていること、とても不思議なんだ、とキーを打った。不思議というか、実は、複雑なんだ、和辻の書いていること。
和辻哲郎の『古寺巡禮』が上梓されたのは、大正8年。和辻が、その前年の大正7年5月に、奈良を訪れた時の印象を纏めたものである。古寺ばかりでなく、博物館にも行っている。今では、ヘエーという感じもするが、その頃は、法隆寺の百済観音も、他の寺の今では著名な仏像も、博物館(今の奈良国立博物館)に寄託されていた。
その中で、和辻が、最も魅せられた仏さまは、聖林寺の十一面観音なんだ。この聖林寺の十一面観音、ずいぶん昔、室生寺に行った折り、同じ沿線なので、見に行ったことがある。長身でありながら肉づきのいい、それでいて凛とした厳しい表情の仏さまで、仰ぎ見た、という憶いがある。たしかに、素晴らしい観音さまであった。
しかし、和辻哲郎の、この聖林寺の十一面観音に寄せる思いたるや、半端なものではない。
7〜8ページにわたる、この仏像についての和辻の記述から、何か所か抜き書きしてみると、こうである。
<だが、聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思ふ。・・・・・われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。・・・・・殊にこの重々しかるべき五體は、重力の法則を超越するかのやうにいかにも軽やかな、浮現せる如き趣を見せてゐる。・・・・・これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である>、と幾らでも続いていく。
当時(大正7年)の奈良の博物館には、この聖林寺の十一面観音の後ろに、法隆寺の百済観音が展示されていた。和辻哲郎、百済観音については、こう書いている。
<百済観音は写実的根拠を有する点において聖林寺観音に劣らない。・・・・・しかしこの作家の強調するところは聖林寺観音の作家の強調するところと、ほとんど全く違ってゐるのである。・・・・・しかし百済観音が代表してゐるのは漢化せられた様式だけである。・・・・・そこには簡素と明晰とがある。同時に縹渺とした含蓄がある>、と。
また、こうも書いている。
<あの深淵のやうに凝止してゐる生の美しさが、ただ技巧の拙なるによって生じたとは、わたしには考へられぬ>、とも。
ウーン、難しいな。和辻の文章の表面だけを見れば、上げたり下げたり、ともとれるが、必ずしもそうでもない。和辻哲郎、観音像について、こういうことを言っているんだ。
<だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである>、とか、<先ず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持ってゐなくてはならぬ>、とか、さらに、<百済観音は朝鮮を経て日本に渡来した様式の著しい一例である>、とし、その先の中国、インドの美意識ということを、言っているようにも思える。それがどうだ、ということではなく、様式の違い、ということを。
和辻哲郎は、百済観音について、聖林寺の十一面観音と比較し、こうういうことを考えていたのだ。
しかし、面白いといえば面白い。本来の寺に戻った二つの観音さま、ひとつは、大きく豪華な建物に入った国民的な仏さまとなり、ひとつは、存在感のある仏さまではあるが、外れた山里の小さなお寺におわすこと。
譬えは悪いが、若い頃ともに端役をやっていた役者が、何十年か後、一人は国民的大スターとなり、一人は上手い役者ではあるが、たまにしか声がかからない、ということと似ているな。本質とは、関係のないことではあるが。
百済観音、こんなところで措いておこう。

西院伽藍から、東院伽藍への道。
右手、長々と築地塀が続く。突きあたりに小さく四脚門、そして、夢殿の屋根が見える。

夢殿。
天平11年(739年)、聖徳太子の斑鳩宮の跡に造られた。
八角円堂。東院の本堂である。何ともいえぬ色調だ。屋根の上には、宝珠が輝いている。
堂内には、聖徳太子等身の秘仏、救世観音像が安置されている。

夢殿の廻廊。夢殿をグルッと囲んでいる。
西院伽藍の廻廊に劣らず、その列柱、美しい。

帰途、連子窓を通して見た夢殿。
年を経た連子、これまた捨て難い風情がある。
なお、東博(東京国立博物館)にある法隆寺宝物館の収蔵品は、明治11年(1878年)、法隆寺から皇室に献納された300余件の宝物である。当時、1万円が下賜された、という。
法隆寺に限らず、当時は、日本中のお寺、その堂塔の修理代にもこと欠く、厳しい状況にあった、という。
そのおかげで今、薄暗い明りの中、3〜40体の金銅の飛鳥仏が整然と並ぶ光景を観ることができる。高さ3〜40センチの小さな金銅仏の林、素晴らしいものだ。