外地(続きの続き)。

五木寛之の初期作品、ジャズがらみの小説が多い。中でも、『さらばモスクワ愚連隊』と『GIブルース』の2作品は、とてもよく似ている。
小説の舞台は、前者はモスクワ、後者は東京である。しかし、主人公の名は、共に北見。30代前半の男。何年か前まではジャズピアニストをしていたが、今は、外人タレントの斡旋をしている。つまり、呼び屋。
何よりも、日本人と外国人の関係、よく似ている。両者とも。主人公の北見、ジャズのプレイヤーはやめたが、ジャズに対する思い入れは強い。その日本人・北見が、ロシア人ばかりかジャズ先進国のアメリカ人に対しても、ジャズのなんたるか、ということを教える。興味深い設定である。
『さらばモスクワ愚連隊』の舞台は、1965年のモスクワである。
学生時代の友だちからの依頼で、日本のジャズバンドをモスクワへ送る、という話を引き受ける。その事前打ち合わせでモスクワへ行く。1965年、雪解けムードが漂うモスクワであはるが、当時のソ連、とても固い国。ホテルのレストランでは、「マイアミ・ビーチ・ルンバ」なんかが流れている。ジャズ後進国なんだ。
そこで、さまざまな男と出会う。たとえば、打ち合せに行った、ソ連対外文化交流委員会の部長・ダンチェンコという男。ジャズが芸術か否か、というような議論をする。と、何と、ダンチェンコ、やおらピアノに向かいショパンを弾く。「これが、音楽だ」、と言って。このようなオヤジでもピアノを、それもショパンを弾くんだ、と読者はニヤリとするに違いない。
と、日本人の北見、何と何と、「ストレインジ・フルーツ」を弾く。よりにもよって、あのビリー・ホリデイの「奇妙な果実」を。「これが、ジャズだ」、という思いで。「これは、黒人のブルースだ」、と言って。
日ソ、ピアノ対決、といった構図だ。しかし、それよりも、敗戦後、ソ連に蹂躙された日本人が、ジャズ後進国・ソ連の頑迷さに立ち向かう構図が面白い。ここでのジャズは、発祥国・アメリカよりも、日本の音楽となっている感がある。
だが、北見の感覚、最も表われるのは、トランペットを吹くミーシャという名の少年との関わりだ。
ミーシャ、周りのソ連人からは、「スチリャーガ(ろくでなし)」と言われている。気取った風にトランペットを吹く。そこで、北見、ミーシャにこう言う。「いまきみがやっているのはジャズじゃない。すくなくともブルースじゃないぜ」、と。
<「ジャズは・・・」とそこまで言って私は言葉につまった。ジャズは人間の生きかただ、そいつはごまかせない、と私は言いたかったのだ>、と続ける。ジャズの魂を、ソ連人の少年に教える。ジャズ弱者のソ連人に。ミーシャたちの溜まり場である「赤い鳥」というジャズクラブで、北見はピアノを弾いて。これがジャズだということを。成る程、という構図。
この作品、その結末は、洒落ている。
日本側の後援をしていた商社が手を引く。すぐ帰って来い、との電報が入る。ミーシャが、彼の恋人に手を出した男を刺して捕まり、どこかへ行ってしまった、ということも聞く。
この物語、平穏には終わらず、ガタンと舞台は暗転する。日本人と外国人とのお話、”それはよかった”、で終わらせないところが、いかにも五木寛之だ。
『GIブルース』の舞台は、1966年の東京。こちらは、日本人とアメリカ人の物語。
主人公の名も北見、彼のバックグラウンドも前作と同じ。ただ、北見、土曜日の夜は、竜土町界隈の小さなクラブで、昔の仲間の演奏をききながら、バーボンを飲んで過ごしている。その店のオーナーが、店のはねた後、彼らに自由に使わせてくれているんだ。子細はあるが、東西南北、みな省く。
ある夜、ジェイムズという名の痩せた白人の青年が、北見を訪ねてくる。米軍岩国基地のGIだ。この男、<それにしても、悪くない演奏だった>、というピアノを弾く。そこで、北見との間で、こういう会話が交わされる。
<「ぼくのピアノをどう思います?」 「なかなかいい。と、いうより、とても巧かったよ。でも、それだけだ」 「何ですって?」 「あんたの演奏は、とても素敵な独り言だってことさ」 「それじゃいけないんですか?」 「うん」 「なぜ?」 「本当のジャズには、対話が必要だ。・・・・・」>、といった会話が。
<「ぼくはアメリカ人です」 「それがどうした」>、という具合に続いていく。
日本人である北見は、アメリカ人のジェイムズに、本当のジャズとは、ということを教えていく。
ある時、大手の呼び屋がアメリカから呼んだ大物クインテットのピアニストが、麻薬がらみで捕まり、ジェイムズを貸してくれとの話がくる。紆余曲折があるが、前後左右、みな省く。
開演ギリギリに来たジェイムズを追って、岩国基地の大尉が来る。ジェイムズ、外出許可が取れなかったので、無断脱営してきたんだ。その間に、部隊は、サイゴンへ移動した。1966年、ベトナム戦争、激しさを増していた頃だ。
ジェイムズは、どうなる。<「銃殺に値する一種の敵前脱走だ。・・・・・配置換えだ。最前線の囮部隊へな。生きている限りいつまでも交替というものがない」>、とジェイムズを逮捕にきた大尉は言う。
この物語の結末も、印象的だ。
<合衆国GI、ジェイムズ・グリーン。彼はもう決して帰ってくることはないだろう、と北見は思った。・・・・・1966年5月の、暗い夜だった>、というエンディング。
これらの作品から3年後に発表された『夜明けのラグタイム』は、やや趣きを異にする。
15年ぶりぐらいで、バッタリ会った、男と元ジャズ歌手の物語。元ジャズ歌手、アメリカ人と結婚し、カリフォルニアに行った。気のいい女だ。で、一夜、昔のジャズ仲間を訪ねて歩く。みな、今はもう、ジャズとは別の仕事をしている。こういうシチュエーション、遥かな昔、70年以上も前のジュリアン・デュヴィヴィエの名画、「舞踏会の手帖」を想わせる。
長くもなったので、これ以上は触れないが、この作品のエンディングも洒落ている。
<・・・・・さよなら、と言い、・・・・・>、というもの。
そう言えば、この元ジャズ歌手がアメリカへ行ったのは、朝鮮戦争の頃のこと。外地引揚者の五木寛之、戦争のこと、外国との繋がり、さまざまな思いを持つ。
まだ、西本願寺系の龍谷大学で、仏教史を学ぶ前の五木寛之。お寺巡り、インドなどの仏跡巡りの書を出す前の五木寛之だ。