幕間。

マイルスから始まったジャズがらみの尻取りブログ、ちょうどひと月ばかりになる。
慎太郎、大江、中上、W村上、それに深沢七郎という大物(あくまでも、私の思いであるが)にも触れたし、他の何人かの研究者のことにも触れた。ファースト・ステージは終わった。で、次のステージまでの短時間、暫くノドを潤すためのインターヴァル、幕間に入る。
ところで、昨日までの「ポートレイト・イン・ジャズ」、その続きも、そのまた続きも、さらにその続きも、4日間の村上春樹がらみのブログ、文体模写を試みた。もちろん村上春樹の文体を。
「オイオイ、冗談も休み休み言え」、なんて言わないでもらいたい。人称代名詞も”私”ではなく、”僕”になっていたでしょう。それよりも、とても読み難かったことでしょう。私も書き難かった。村上春樹の文体、一見易しそうにみえるが、そうでもない。模写しやすそうにみえて、そうではない。やはり、彼独特の流れがある。
ついでに明かせば、2週間ほど前、6日の平野啓一郎の対談集『ディアローグ』について書いた時、そう、平野啓一郎と大江健三郎との対談について書いた時も、文体模写を行った。この時は、大江健三郎の文体模写を。
ただし、本文のみである。この日のタイトル「<ナラティヴの主格と・・・・・>なんてこと言われても、ねぇー」だけは違う。大江が、”・・・・・なんてこと言われても、ねぇー”なんてことを書くわけがない。
その時には、”なんてこと言われても、ねぇー”だから、ナラティヴの主格なんてことは、サッサと端折って、ジャズがらみの話に持っていった。しかし、考えてみると、”ナラティヴの主格”ということは、物語の主体ということであり、”主格”といってもさまざまである。
一人称もあれば、二人称もあり、三人称もある。さらに、そのそれぞれに幾通りもの表記法がある。特に、一人称の代名詞などには、それこそ少し大袈裟にいえば、数限りない表記がある。
私、僕、俺、わたし、ワタシ、アタシ、アチキ、ぼく、ボク、おれ、オレ、小生、愚生、手前、テメェやウチ、ワテなんて言い方もあれば、アッシなんてこともある。拙者、それがしなんていうこともあったな。地方地方の言い廻しを加えていけば、どれほどになるか解からない。
6日の大江健三郎の文体模写の時には、私は、”ぼく”を使った。文章自体、句読点はあまり使わず、わざと回りくどい言い廻しにした。もっとも、そんなことをしたところで、大江の文体になるわけはないのだが。”主格”のみならず、”ナラティヴ”の問題も噛んでいるのだから、根本は。
で、今日、丸谷才一の『文章読本』(昭和52年、中央公論社刊)を読んでみた。
昨日のブログで、ソニー・ロリンズの「中国行きのスロウ・ボート」もいいが、ギャヴィン・ヤングの『スローボートで中国へ』も面白いですよ、と書いた。久しぶりでその本を取りだしたら、その中に丸谷才一の書評の切り抜きが挟まっていた、ということも。おそらく、丸谷のその書評がなかったら、破天荒に面白いギャヴィン・ヤングの冒険譚を読んでいなかっただろう。その存在さえ、知らなかったに違いない。
昨日、その切り抜きを見て、丸谷才一の『文章読本』のことを思い出した。そういえば、たしか、あったはずだ、と。探したら、あった。
30年以上前のものだが、おそらく、買った時にはほとんど読んでいなく、積読になっていたものだ。私の持っている雑本の類い、可哀そうにも、その多くはそのような境遇にある。しかし、買った時には碌に読まなくとも、ジジイになった時に役立つものもある。本など、買える時に買っておくものだ。
それはともかく、丸谷才一である。丸谷才一ほどの読み巧者は、そうはいないだろうが、書き巧者でもあることに異を唱える者も、あの「私ほどの」の金井美恵子以外いないだろう。
その丸谷才一、「名文を読め」、「ちよつと気取つて書け」、「言葉の綾」、「言葉のゆかり」などなど12章に渉って、文章上達の秘訣を述べている。谷崎潤一郎、志賀直哉、石川淳、永井荷風、内田百輭、森鴎外等々から、紫式部、鴨長明、本居宣長等々の古人の名文を引き合いに出して。
”文章読本”の先達、谷崎潤一郎の凄さということについては、随所に出てくる。谷崎の『陰翳禮讃』を引いた個所には、<ただ舌を巻くしかない文章の藝である>、と記す。
また、日露戦争開戦の直後、幸徳秋水が平民新聞に掲げた『兵士を送る』という文章には、<情理兼ね備はるといふ賛辞はこの文のためにあると思われるほどの傑作>、としている。断わるまでもないが、丸谷才一は、幸徳秋水が命を賭して書いた、文の内容について言っているのではない。<ただちに用件にはいつた>、という幸徳秋水の文章についてのものである。
ひどい文章の例としては、明治憲法の文章を挙げている。<礼儀も威厳もない目茶苦茶なものだった>、と。<口調がよかつたり、ドスがきいていたりするせいで、幼稚な読者の眼には立派に見えるかもしれないが、伝達と論理を捨ててかへりみないものはもはや文章ではないのである>、とも。
ところで丸谷才一、文体については、何とも単純明瞭な解かり易いことを書いている。
<ちよつと気取つて書くといふこと、あるいは、気取らないふりをして気取るといふこと、それこそは文体の核心にほかならない。文体にとつてとりあへず必要なのは装ふといふ心意気、次に大事なのは装ふ力なのだ>、と。
なお、既にお気づきかもしれないが、丸谷才一の仮名づかいは歴史的仮名づかい。従って、促音、拗音は小さくしない。上の行でいえば、”文体にとって”は、”文体にとつて”となっている。
まあ、それはそれとして、今日のインターヴァル、文体模写の話、これまでとする。