「08憲章」雑感。

昨日のブログ、アルゼンチンに勝ったというところぐらいまでは、まあ普通だったが、ノーベル平和賞が中国の劉曉波に、というあたりから酔いがまわってきた。終わりの方では、だんだんと朦朧となってきたので、そこで打ち切った。
今の中国の体制、大いに問題がある。ここまでは、誰が考えても、そうである。しかし、その後である。それを打ち破るには、何故、毛沢東的な人物ではダメで、訒小平的な人物でなければならないか、よくお解かりにならなかったであろう。
私自身も、どうしてそういうところに話がいったのか、よく解からない(何しろ、私のこの雑ブログ、ほとんどは夜酒を飲みながら、その時思いついたことを、そのままキーに打っているもの故、酔ってボウとした時など、おかしな方に行ってしまう)が、簡単に言ってしまえば、毛沢東は、原理主義者で、訒小平は、そうでない、ということだ。
それも、おそらく、他に例を見ないほどの、非原理主義者である、ということだ。訒小平は。だから、今の中国を変換できるのは、第二の訒小平が現れなければ、ということになる。私の論では。
「08憲章」も、民主主義国にとっては当たり前のこと、しかし、今の中国にとっては頭の痛いことが書いてある。自由、人権、平等、共和、民主、憲政、これらの基本的な理念の許、19項目に渉る主張を述べている。国の骨格、こうあるべき、という主張が。立派なものである。憲法ではないが、その基盤を作るようなものだから。
しかし、酔って朦朧とした頭で読んでいては、やはりダメ。見落とす。今日、改めて読み直した。その体制の中に身を置きながら、勇気がいる。それこそ、命を賭けた文案である。だから、劉曉波、今、獄につながれている。
劉曉波、最終的には、中華連邦共和国を目指している。共産党の一党独裁を廃し。しかし、その劉曉波にして、よく読むと、中華意識、大国意識が、ほの見える。民族問題に関し。
各民族の共通の繁栄の道が可能な制度設計、民主的な立憲政治の枠組みの下、と。それにより、中華連邦共和国を作る、と。
だがしかし、私はずっと、他民族支配は、必ず破綻する、と思っている。旧ソ連の例を見るばかりでなく。中国も例外ではあり得ない、と思っている。

民族協和は、口当たりがいい。しかし、現実には大変難しい。中国人は、中国は、元々多民族国家である、という意識を持つ人が多い。以前、中国で、日本語を話す知的な中国女性と、議論をしたことがある。彼女は、最後まで、中国は、古来多民族国家であった、という説を曲げなかった。
「08憲章」の前提も、その点は同じく感じられる。私には、どうしても、中華意識、中華思想が感じられる。それが、劉曉波のノーベル平和賞受賞の価値を下げる、ということではないが。
実は、今日のブログ、中国では、劉曉波のノーベル賞受賞が報じられていない、という日本のメディアの報道に、そうかな、と思い、中国のネットを見てみたことを書こうかな、と思っていた。
だが、眠くなってきた。酔ってもきたし。だから、そのことは明日にする。