奈良の寺(9) 海龍王寺。

法華寺の山門を出てバス通りに出、100メートル足らず歩くと、海龍王寺の山門がある。
丁度、法華寺と背中合わせになっているようなもの。
それも当然、法華寺と海龍王寺は、共に、光明皇后の父親である藤原不比等の屋敷があったところに建立されたものだから。不比等の没後、その屋敷を光明皇后が引き継いだものだという。

その山門。
小ぶりな四脚門である。室町時代の作。渋い。美しい。

読み辛いが、山門につながる築地塀に、「海龍王寺のいわれ」という札が懸かっていた。
その後、入口で貰ったパンフレットには、「光明皇后の御願により天平3年(731年)新たに堂舎を建立・・・・・海龍王寺(隅寺)としての歴史を歩むことになりました」、と書いてある。
エッ、天平3年、本当か。法華寺の建立が、天平17年だというのに。藤原不比等が死んだのは、養老4年(720年)。その時、光明皇后19歳。既に、聖武天皇の妃であった。まだ、皇后ではなかったが。仏教への帰依は深かった。父親・不比等から引き継いだ屋敷、敷地の中に、仏を祀る堂宇を造って不思議ではない。
天平2年(730年)には、興福寺の五重塔を、天平6年(734年)には、西金堂を建立しているし。
しかし、不比等の残した屋敷跡に造った二つの寺院、常識的にいえば、法華寺がメーンで、海龍王寺はサブであろう。海龍王寺は、敷地の隅に造られたので、「隅寺」と呼ばれていた、というのだから、なおさらに。
どうも、お寺というものは、初めからマスタープランがあるわけではなく、大きな寺でも、その堂塔伽藍、ひとつひとつ造られていくようだ。だから、初めはまず小さな堂宇から、ということは考えられる。おそらく、海龍王寺の場合もそうであろう。そして、寺伝では、初めの年を創建の年とする。おそらく、そうではないかな。いずれにしろ、このお寺も、光明皇后により造られたのは、違いない。

山門を入ると暫く細い参道を進む。
その横には、このような土壁の築地塀が続く。これも室町時代から残るもの。とても美しい。

と、小さな門を通して、本堂の屋根が見えてくる。

本堂。
今の本堂は、江戸時代に再建されたものだという。

本堂の横に立っていたこの板にそう書いてある。
このお寺も、今まで大変な目にあっている。パンフレットにも・・・・・
「京都で応仁の乱が起こると、大和に攻め込んできた軍勢により打ち壊しや略奪に遭い、慶長の地震も重なり、・・・・・明治時代になると廃仏毀釈の嵐に呑み込まれ、・・・・・」、と書いてある。
奈良の寺ばかりではないが、あちこちの古寺、幾多の試練の時期をくぐり抜けてきた。

本堂の軒。
イヤー、美しい。朱と黒、味の出た根来塗りのようではないか。
上の方の、風雨に晒され色褪せた、木の肌の色もまた、美しい。
この本堂に、海龍王寺の本尊である十一面観音像がある。法華寺と異なり、こちらは、鎌倉時代作の像そのもの。
高さ1メートル足らずの檜材で造られた仏さま、金泥が施されている。衣には、朱、緑青などの色が見える。透かし彫りの銅製鍍金の飾り。それでいて、ハデさはない。落ちついた感じ。神々しい。

金堂。
幾度かの修理はしてきたとのことだが、奈良時代、創建時からの建物である。
そういえば、入口で貰った小さなパンフレットには、このような歌が刷られていた。
<しくれのあめ いたくなふりそ こんたうの はしらのまそほ かへになかれむ     秋艸道人>
大正9年、秋艸道人・会津八一が詠んだ歌だそうだ。なお、「まそほ」は、「真赭」。朱の顔料である。
今では、金堂の柱、茶色っぽく見えるが、90年ぐらい前には、まだ赤っぽかったんだな。

境内の端の方。
前の小さな建物は、生木地蔵。後ろの建物は、一切経蔵。

海龍王寺、小じんまりとしたお寺である。その境内もさほど広くはない。しかし、あちこち木が多い。手入れはされているのだろうが、生い茂っている、という感じもある。
このお堂の名は知らないが、やはり、樹木に囲まれていた。

帰りに山門をくぐる時、フト横を見たら、門の内側に細いつる草がからんでいた。

近づくと、こうである。
土壁をバックに、細いつるとグリーンの葉、生けたようだ。

より近寄ろう。
木、土壁、草。その色調とバランス、巧まずして、現代日本を代表する花の遣い手・川瀬敏郎の「たてはな」に対抗できる。いや、負けていないんじゃないか。

こちら側も。
川瀬敏郎、何と言う。

山門につながる、表の築地塀にも近寄ってみる。
室町時代以来という築地塀、5〜600年の歳月が、すり減った表と色調に表われ、何とも言えない。美しい。
それにしても海龍王寺、美しい色がそこかしこ、あちこちに見られるお寺である。
これで、「奈良の寺」の連載は終わりである。
あしかけ4日、正味3日間のお寺巡りであった。9つのお寺を訪れた。1日平均3つのお寺を訪ねたことになる。
興福寺や東大寺、また、なら町や博物館、奈良の中心部ともいえる飛火野の方には行かなかった。さらに、今一度、と思っている幾つかの寺にも行けなかった。
もちろん、タクシーなどをチャーターして廻れば、より多くのお寺に行くことはできるであろう。しかし、そんな贅沢な芸当は、私にはできない。基本的には電車とバス。タクシーを使うのは、バスがないところや、あっても待ち時間の長い時のみ。
朝、ホテルを出るのも遅い。いつも10時すぎ。朝飯を食べにホテルの食堂へ下りていくと、いつも人はいなかった。お寺に着いても、四六時中休憩をしていた。だから、もう少し早起きのできる人や、さほど座って休まなくてもいい人なら、もう少しは廻れるだろう。
しかし、私にとっては、この程度で丁度いい。飛鳥寺の板壁にも書いてあった。「不慳貪」、欲ばるな、と。
まあ、身の丈に合った、私の古寺巡礼だろう。それでも、帰宅後、だいぶ疲れたが。
今回、それぞれのお寺で、ただひとつだけお願いをした。
式自体は間もなくだが、先日入籍し、既に新生活を営んでいる私の娘と、学生時代はサッカーをやっていたという私の新しい息子、新たな人生を歩み出した、その二人の将来の幸せをお祈りした。お賽銭をあげ、線香や蝋燭のあるところでは、それを灯し、手を合わせた。9つのお寺それぞれで。
なお、和辻哲郎の『古寺巡禮』には、大変お世話になった。
実は、出掛ける前に読み直しておけばよかったのだが、そんなことは、コロッと忘れていた。帰ってブログを書こうかな、という時になって、そうだ和辻だ、彼のいうこと読み直さねば、と気がついた。和辻がどういうことを書いているか、なんてこと、何も憶えていないんだから。
今日の海龍王寺については、和辻は触れていないが、この9日間、毎日和辻の書、その幾許かを読んでいた。私の感覚とは異なるところもあるが、さすがに後日、日本を代表する学者のひとりとなる和辻哲郎、まだ30前のものとはいえ、その文章、噛み応えがあった。