奈良の寺(8) 法華寺。

今日は、法華寺。
平城京の東北部に造られたお寺。現在の奈良市の中心部からも近い。
入山チケットがわりの小さなパンフレットの初めには、こう書いてある。
<法華寺は、聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創められた法華滅罪之寺であります>、と。
そうです。法華寺といえば光明皇后です。
父親は、藤原鎌足の息子にして、時の実力者である藤原不比等。聖武天皇の妃。王族以外で初めての皇后である。
何よりも、夫である聖武天皇に東大寺の建立を進言した。自らも、法華寺ばかりでなく、興福寺や新薬師寺など多くの寺院の建立に関わる。貧者のための悲田院、病者のための施薬院も造る。能書家でもある。さらに、聖武天皇の死後、その遺品を東大寺に寄進、それが、今に残る正倉院の宝物となった。
仏教の庇護者であるばかりでなく、国家プロジェクトのプランナーであり、実行者であり、社会福祉事業家であり、芸術家でもある。何よりも、政治家であった。日本を代表する女傑のひとりである。
なお、聖武天皇の詔が発せられたのは天平13年(741年)。法華寺が成ったのは、天平17年(745年)であったそうだ。それ以来の門跡寺院である。
また、奈良の寺、この法華寺に限らず、平安末期から中世にかけ、多くの寺が荒廃している。天変地異や火災、また、兵火によって。法華寺も例外ではない。
最盛時には、<金堂、講堂、東西両塔・・・・・と荘厳のかぎりをつくした「天平の大伽藍」も、ついにほとんど旧来の寺観を失うて今日に及びました>、と貰ったパンフレットには書いてある。

小ぶりな山門。その色調からであろうか、赤門と呼ばれているそうだ。
法華寺門跡、と墨書されている。

本堂。
今の本堂は、慶長6年(1601年)、淀君の寄進により復興されたものだそうだ。淀君、女傑の大先輩である光明皇后が造られた法華寺の荒廃、見ていられなかったのであろう。

本堂の横には、このような説明書きがある。
法華寺の略縁起が記されている。
この本堂の中に、本尊の十一面観音像がある。平安初期、9世紀前半に造られた、という。
高さ1メートルほどの、カヤの一木造。とても肉感的な仏さまである。肉感的と言っても、秋篠寺の伎芸天のようなものではない。伎芸天は、世俗的な色っぽさ。それはそれで、魅力的な素晴らしい仏さまではあるが、法華寺の十一面観音は、肉感的、官能的でもあるが、厳しい感じを持つ仏さまである。
だから、和辻哲郎もこう書いている。
<・・・・・まづその光った眼と朱の唇とがわれわれに飛びついて来る。豊満な顔ではあるが、何となく物凄い。・・・・・胸にもり上った女らしい乳房。胴體の豊満な肉づけ。その柔らかさ、しなやかさ。・・・・・しかし、その美しさは、天平の観音のいづれにも見られないやうな一種隠微な蠱惑力を印象するのである>、と。
実は、先日私が見た十一面観音像は、レプリカである。法華寺では、御分身、と呼んでいる。国宝であるお像は、春と秋に数回公開されるだけである。
なお、御分身である十一面観音像、非常に精巧なものである。昭和40年、インド政府に依頼した最上の白檀の一木から造られたそうだ。とても美しい。
秘仏の公開は年に数日、ということは、ままあることである。それは致し方ない。その際、この御分身という法華寺のシステム、他の寺でも、もっと取り入れられてもいいのではなかろうか。特に、法華寺の十一面観音のような特徴のある仏像に関しては。
法華寺の十一面観音、そのお姿のみでなく、その光背がとてもユニークなんだ。クルッと巻いた蓮の葉が、八方にのびている。丁度千手観音の手が八方へのびているように。そのクルッと巻いた蓮の葉が、光背なんだ。とても珍しい。
ところで、この十一面観音像については、面白い話がある。パンフレットなどに書いてある。こういう話。
常々観音さまを信仰していた、インド、ガンダーラの王さまがいた。その王さまは、ある時生身の観音さまを拝みたくなった。その時、生身の観音さまを拝みたくば、大日本国の聖武天皇の正后・光明皇后のお姿をうつした像を拝め、というお告げがあった。で、ガンダーラ国第一等の彫刻家である問答師を日本へ遣わした。難波津に着いた問答師、その後さまざま紆余曲折はあったものの、3体の観音像を造り、1体を持ち帰国した。
日本に残された2体の内の1体が、今、法華寺にある十一面観音像である、とのお話である。『興福寺濫觴記』という本に出ているそうだ。
この問答師という仏師、興福寺のあの八部衆と十大弟子の像を造った、と言われている人である。だから、ガンダーラの王さまが遣わし云々、というのは、伝承であり、お話である。面白く、よくできたお話であるが。
法華寺の十一面観音が造られたのは、前述したように、平安時代に入ってから、9世紀前半である。光明皇后が活躍された時代は、8世紀の前半である。
では、なぜこのようなお話が残されているのか。おそらく、法華寺の十一面観音像のお姿が、あまりにも肉感的な魅力に満ちているからである。また、生身の光明皇后のお姿も、おそらく、そうであられたからであろう。
誰しもそう思うであろうし、おそらく、事実もそうであろう。

門跡寺院である故か、その境内、塵ひとつ落ちていない。

鐘楼。
本堂と同じく、慶長6年(1601年)、淀君の寄進により復興された、という。美しい。

光明皇后は、天平宝宇4年(760年)、60歳で亡くなった。今年は、それから1250年になる。
本堂の前には、光明皇后千二百五十年大遠忌法要と書いた柱が立っていた。本堂の前の白木の舞台は、おそらく、その法要のため、一次的に設えられたものだろう。

近寄ると、その法要、5月の6,7,8日に、3日にわたり取り行われたようだ。
そう言えば、本堂の須弥壇の前に、「天皇皇后両陛下」と書かれた札があり、両陛下からの供物が供えられていた。今なお、皇室との縁は深い。
ところで、和辻哲郎の『古寺巡禮』には、法華寺について多くのページが割かれている。光明皇后についても。
光明皇后が、ハンセン病患者の膿を口で吸いだされた、という有名な話については、こう書いている。
<しかしそれが出来なければ、今までの行は誤魔化しに過ぎなくなる。穢いから救ってやれないといふほどなら、最初からこんな企はしないがいヽ。信仰を捨てるか、美的趣味をふみにじるか。この二者択一に押しつけられた后は、不得己、癩病の體の頂の瘡に、天平随一の朱唇を押しつけた>、と。
さらに、<・・・・・従って宗教的な法悦と官能的な陶酔との融合が成り立つといふことも、極めてありさうなことである>、とも。
後の大哲学者、和辻哲郎も、この頃はまだ28,9の学者の卵。宗教の法悦と官能の陶酔の狭間で、大分気も高まった文章を書いている。
十一面観音についての記述も多い。問答師と光明皇后、そして、十一面観音の関係についての。
何しろ、和辻がゾッコンの、聖林寺の十一面観音や中宮寺の半跏思惟の観音よりも、はるかに多く書いている。少し長くなるが、あちこち和辻の文章を拾ってみよう。
<・・・・・密教の立場から云えば、女の體の官能的な美しさにも佛性を認めて然るべきである。・・・・・問答師が見ると、后のからだは女體の肉身ではなくして十一面観音の像に現はれてゐる。・・・・・当時三十二三歳位であった光明后は、観音像のモデルとしてもふさはしい。・・・・・彼の製作欲がそこに動いた。さうして手頃の大きさの十一面観音が、制作それ自身を目的とする歓喜の内に造られた。これも「あり得る」ことである。・・・・・>、と。
和辻自身、法華寺の十一面観音が、光明皇后をモデルに、問答師が造ったものではない、ということは解かっている。時代が違うのだから。”これも「あり得る」ことである”、という一節でも、それは解かる。
だから、<現在の十一面観音は光明后をモデルとした原作を頭に置いて後代の人が新しく造ったものだといふ想像説が成り立つ>、という常識的な結論づけに至っている。
しかし、この常識的な結論、私にはあまり面白くない。それまで、若さにまかせて、さんざ、光明皇后と十一面観音の官能的な美しさを書いてきたのだから。
事実は、確かにそうだろう。だが、何かひと捻り。頭のいい和辻なんだから、何かひとつ常識的なものじゃない何かを書けなかったのか、とも思う。
それはさておき、天平期をアグレッシブに生きぬいた光明皇后、魅力的なお方である。