主従二人(殺生石)。

4月19日、現在の暦では、今日6月6日、前夜、那須湯本に泊まっていた主従二人は、殺生石に行く。
殺生石は、那須温泉の山陰にあり、硫化水素や炭酸ガスなどの火山性有毒ガスが噴出し、蜂や蝶の類が地表の砂が見えなくなるほど、重なりあって死んでいる、と芭蕉は書いている。
ここまでは、黒羽の館代、城代家老が馬と馬方を付けてくれた。桃雪なる俳号を持つ、この浄法寺図書高勝という男、当時29歳だったというが、黒羽で大歓待をしてくれたばかりでなく、後々の面倒までみてくれていた、と思える。年は若いが、地位ある男、オレが国をでるまでは、との思いがあったのであろう。
その馬方の男が、何か一句、短冊に書いていただけませんか、と芭蕉に言う。何と優しいことを言う男よ、と芭蕉は書いている。しかし、それと共に、その主人も大した男だが、馬の口取りをする馬方とはいえ、この男もなかなかな男じゃないか、と思ったのではなかろうか。
この句を詠む。
     野を横に馬牽きむけよほととぎす
岩波文庫『おくのほそ道』の校注者・萩原恭男は、<広野を進んで行くと、横の方で時鳥が鋭く鳴いた。馬をその方に引き向けてくれ。風流を愛するお前と共に聞こう>、と注釈をつけ、風雅な馬方に即興で応じた句、と記している。
山本健吉は、<・・・・・即興的に、一気によみ下したような勢いがある。・・・・・古くから「いくさ仕立て」の句だという評があるが、この句の響きをよくくみ取っている。・・・・・戯れに大将を気取ったような身ぶりがこの句にあり、それがこの句の頓才として生きている>(『グラフィック版 奥の細道』)、と書き加えている。
たしかに、字面を見ていると、勢いを感じる。広い北関東の野を行く芭蕉、この句といい、何日か前、黒羽の光明寺で詠んだ、いよいよ白川の関を越えていくぞ、という自らに気合いを入れた「夏山に足駄を拝む首途哉」、の句といい、奥の旅への精神力、十分に整っている。