主従二人(須賀川)。

白川の関を越えた主従二人、須賀川を目指す。
須賀川には、芭蕉の来るのを今や遅しと待っている、等窮という男がいるんだ。
そこまでの道中はこうだ。
阿武隈川を渡った。左の方に会津の磐梯山が高く聳え、右の方には岩城、相馬、三春の庄があり、常陸、下野との境の山々が連なっている。影沼というところを通ったが、今日は曇っていて物影は映ってはいなかった。
白川の関を越え、芭蕉が見、書いている事実だけを記せばこうであるが、これが陸奥か、関東と隔てている山々か、奥州に入ったな、という感慨はあったろう。
で、須賀川の駅長(今のJRの駅長のようなサラリーマンではない。駅は、律令制のもと、公用の馬や人夫などを備えていたところであるが、そればかりでなく、今でいえば、JRに加えクロネコヤマトやNTTのような機能も合わせ持っていたところの親分である)であり、大地主でもあり、当然のことながら、土地の名士でもある等窮を訪ねる。
『おくのほそ道』の校注者・萩原恭男によれば、等窮は、正しくは等躬という字を書くようだが、本名は、相楽伊左衛門。奥州俳壇の有力者であり、歳は芭蕉よりは少し上の当時52歳だったそうだ。
その等躬、芭蕉と曽良の主従二人が屋敷に着くやいなや、「白川の関はいかが越えられましたか」、と聞く。いかに、といっても、どのように、ということではない。関を越える時に、どのような句を詠まれましたか、宗匠は、と問うているんだ。
等躬の頭には、俳諧のことしかないんだ。江戸の大宗匠・芭蕉が来るのを、一日千秋の思いで待っていたのだから無理もない。どのような分野であれ、このようなこと、今でもまま見られる。
等躬の問に、芭蕉はこう答える。
長旅で心身共に疲れ、その上、素晴らしい風景に魂を取られ、あちこちで歓待していただきながら別れてきたのも断腸の思いで、さほどの句も浮かばなかったのでははありますが、と言う。この言葉、ここがミソとなる。なぜなら、『おくのほそ道』には、この後に、芭蕉はこの句を記しているからだ。
     風流の初めやおくの田植うた
芭蕉が須賀川の等躬の屋敷に着いた時、大地主の等躬のところでは、村人総出で田植えをしていたらしい。この芭蕉の句、等躬への挨拶句だ。奥州の風情を盛りこんだ。
江戸俳壇の大宗匠とはいえ、俳句で食っていくこと、人気商売であることには変わりがない。あちこちのパトロンの心を掴む術、芭蕉は心得ている。
この芭蕉の「風流の・・・・・」の句を発句として、その夜さっそく、芭蕉、曽良、等躬の3人による三吟歌仙が巻かれる。
曽良の『俳諧書留』には、<奥州岩瀬郡之須か川 相楽伊左衛門にて>、と記し、その時、芭蕉、曽良、等躬、の3人で巻いた句36首が記載されている。初めを引くと、
     風流の初やおくの田植歌     翁
     覆盆子を折て我まうけ草     等躬
     水せきて昼寝の石やなをすらん  曽良
最後に、<元禄二年卯月廿三日>、と曽良は書いている。芭蕉、曽良、等躬による三吟歌仙、22日の夜から始めて、翌23日に巻きあがったようだ。
なお、念のため記すと、覆盆子は、イチゴのことである。
『おくのほそ道』には、等躬の屋敷には4,5日逗留したと芭蕉は書いているが、実は、4月29日(新暦6月16日)まで足かけ8日滞在している。
それ故、今日はこれで打ちきり、須賀川の続き、明日にする。