島谷晃の世界。

一昨日、島谷の葬儀の帰途、具合が悪くなり、2日間、ブログ休みとした。
昨日、今日、じっとしていたら落ちついてきたので、再開する。
島谷晃、50年近い画業の中、内外で多くの展覧会を開いている。
海外での展覧会は、記録によってしか知らないが、国内での展覧会は、ある程度のものは観ている。その中でもっとも大がかりなものは、10年近く前、池田20世紀美術館で開催されたものであった。
2001年12月1日から2002年2月28日まで、3カ月間に渉って催された。タイトルは、「島谷晃の世界 鳥になった画家」。
池田20世紀美術館で企画展を持つことは、現代作家にとっては大きな誇り、オープニングの会場には、私たち学生時代からの仲間も東京駅で待ち合わせ、10人ばかりで祝いに駆けつけた。島谷にとってもエポックメイキングな展覧会、嬉しそうであった。普段はラフな服装でいることが多い男が、この日ばかりはダブルのスーツにネクタイ姿であった。
その折り、島谷に貰った展覧会の図録の中から何点かを拾い、島谷の画業の跡を辿ってみる。

図録の扉。カラフルな立体作品があしらわれている。

1966年、学生時代の作品。タイトルは、「くじゃく1」。
島谷のその後の創作の原点ともいえる作品だ。この何年か後からは、顔料はアクリルを使うようになるが、このころはまだ油絵の具を使っていた。

これも1966年の作品、「くじゃく2」。孔雀の羽が女性像になっている。
くじゃく、即ち鳥と、女性の顔、このふたつは、生涯を通じての島谷のモチーフとなっていく。

「ふくろうたち」。1981年の作品。アクリル絵の具を使っている。
初期の頃は、孔雀をイメージした作品を描いていたが、いつの頃からかふくろうを描くことが多くなった。もちろん、他の鳥をイメージした作品もあるのだが、島谷晃といえばふくろう、と言われるようにもなる。
倉橋由美子は、この図録に寄せた文「ふくろう頌」の中で、こう書いている。
<私の空想によれば、島谷さんの鳥は羽根一枚一枚が女で、つまりは万物がアトムからできているように、無数の女が集まってできあがっている「原子論的に構成された鳥」のように思われます>、とし、
さらに、<島谷さんの絵を偏愛するような人は、この狭い日本よりむしろ海外に多くいるかもしれません。・・・・・なるほど、鳥には翼があり、世界のどこへでも飛んでいくことができます。おそまきながら気がつきました。ふくろうを描いておられる島谷さん御自身が実はふくろうなのだと>、と記している。

これも、ふくろう。上は、「跳ぶ/G」、下は、「跳ぶ/M」。1980年の作。
GとかMとかと付いているところからみると、この頃は、ふくろうと人体を融合した連作をしていたものとみえる。もちろん、羽の一枚一枚には、倉橋由美子が言うように女の顔が描かれている。

これは、半立体の作品だったような気がする。1992年の作。
左は、「砂の器1/根のない話」。右は、「砂の器/二枚の赤い物体」。

島谷の立体作品。いずれも80年代末から90年代初めにかけてのもの。
この頃、島谷はニューヨークに1年間滞在し、向うで制作しているが、その頃から立体作品を創りだしたのではなかろうか。

「鳳凰飛翔図」。
1996年、鎌倉、西念寺の天井画として描かれたもの。2.5メートルX2.5メートルという大作である。
実は、西念寺は、島谷家の菩提寺であり、通夜、葬儀の導師を勤めた西念寺のご住職は、若い頃、島谷の中学の恩師でもあるという不思議な縁でもあった。
それにしてもこの鳳凰図、青系統と赤系統で描かれた二羽の鳳凰、その色調の鮮やかさといい、鳳凰の羽のあちこちに描きこまれた女の顔といい、島谷ワールドの一頂点とも言えるのではなかろうか。

島谷、龍の絵も描いている。これは、2001年、藤沢の妙福寺の天井画、「蟠龍図」。2.4メートルX3メートルある。
グリーンの抑えたトーンの中、紅蓮の炎の如き赤、ひときわ目を射る。

島谷、屏風も描いている。ふくろうであり、にわとりであり、わしであり、とさまざまな鳥の絵を。いずれも2000年前後の作。
カラフルな島谷の世界を描き出しているが、こうも思える。ひょっとして島谷、現代の琳派を頭に置いていたのではないか、と。にわとりやわしの図を見ていると、その色づかい、背景の処理など、装飾性を高めた琳派の世界にどことなく重なる。

やはり、屏風絵。上は、「つるの夢」、下は、「鳳凰図」。
共に対象のみを描き、画面構成で勝負した作品、と思える。島谷美学を保ちつつ。

2000年の作、「スリナムの鳥の王」。
ふくろうと女の顔、島谷の世界だ。
島谷は、欧米でも展覧会を開いているが、中米の国にも何度も行っていた。スリナムというのも、中南米の国。ここの国立美術館でも展覧会を開いている。いつか、スリナムだったかどこだったか忘れたが、中南米に島谷の熱心なコレクターがいると話していた。

銅版画、石版画、島谷は、版画作品も多く残した。
これは、1988年の銅版画、「火の夢」。鳥と女の顔、島谷は終生追い求めた。
以上、2001年の暮から2002年の初めにかけて催された、池田20世紀美術館での「島谷晃の世界 鳥になった画家」展の図録から、島谷の画業を辿った。だから、それ以後の作品は、ここには載せてはいない。もちろんその後も、島谷は制作を続けている。
5年ぐらい前だったか、江の島の明治元年創業の老舗旅館、岩本楼の大広間に、縦1.2メートル、横5.5メートルの壁画を描いた。この時も、何人かの仲間と見にいった。個展も折々に開いており、、島谷の世界を表現していた。
昨年秋、島谷は3〜4カ月ヨーロッパへ行っていた。その後会った時、スペインやイギリスなどにも行っていたと話していたが、多くはオランダにいたという。
先ほどネットで検索していたら、Studio Azumi の打谷さんという人のブログがあった。打谷さんは、永くオランダに住み、異文化交流を目的としたイベント・プロダクションを主宰しているという。そこに、島谷の個展の模様が載せられていた。
アムステルダムのローヤル・ギャラリーというところで、昨年10月に催された島谷の個展が紹介されている。島谷が訥々と応えている5分ばかりの動画も添えられている。
それを見て、巌谷国士の『封印された星 瀧口修造と日本のアーチストたち』(2004年、平凡社刊)の巌谷の記述を思いだした。この書、巌谷の瀧口修造へのオマージュなのだが、それと共に、加納光於、中西夏之、荒木経惟、など20人ばかりの作家が取りあげられている。その中の一人として、島谷晃についての記述がある。
タイトルは、「謎のまなざし」。初めて島谷に会った時のことをこう書いている。
<そうした作品群につづいて、こんどは別の日に、画家自身がひょっこり目の前にあらわれた。まことに茫洋たる人物で、作品同様つかみどころがない。自身の過去を物語る口調は、羽毛のように柔らかく、卵のように丸味をおびている>、と。島谷が訥々と喋るさま、たしかに、そのようにも感じる。
それと共に、巌谷は、こうも書いているのだが。<独特の強い線で細分されている鳥たちの翼、女たちの髪やシャツたちの肌には、ある種の日本画を思わせる端整さ、静謐さとともに、それとはうらはらの尖鋭なモダニズムがやどっているようにも見えた>、とも。
島谷晃という男、また、島谷晃の作品、倉橋由美子にしろ巌谷国士にしろ、また、他の一筋縄ではいかない人たちの心を捉えていたのはたしかだが、今、私はこう思っている。
これも一筋縄ではいかない男であるが、案外素直なことを書いている。澁澤龍彦が、島谷晃について、「イノセンスの詩情」(澁澤龍彦展図録所載、1994年、美術出版社刊)という文で、こう書いている。
<鳥や植物が美しく少女の顔にメタモルフォーズ(変貌)する島谷さんの世界は、魔法のような、メルヘンのような魅惑にみちている>、と。
私も、今、島谷を思う時、そう思う。