ーまぼろしの翼ー 島谷晃展(続き×3)。

10年ぐらい前になるのかなと思っていたが、調べてみると、ちょうど14年前となる。
2001年12月初めから2002年2月末にかけての3か月間、大規模な島谷晃展が伊東の池田20世紀美術館で催された。そのオープニングには、10人ばかりの仲間で駆けつけた。常にはセーター姿の島谷が、珍しくスーツにネクタイ姿でいたのがおかしかった。島谷晃、一世一代の大展覧会であったんだ。
島谷晃の画業を俯瞰する大回顧展。多くの作品が展示されていた。
その展示を見、また、晴れがましい島谷晃の表情を見て、泊りがけで参集した私たち学生時代の古い仲間も嬉しかった思いがある。
今回の茅ケ崎市美術館での「ーまぼろしの翼ー 島谷晃展」、出展数は70点ばかり。池田20世紀美術館での展示数の半分程度である。
しかし、今回の茅ヶ崎市美術館での島谷晃展、そのインパクトは池田20世紀美術館での島谷晃展を凌ぐ。とてもよく纏まっている。
島谷の友人として嬉しい。

静岡から来てすでに帰った仲間もいる。結局、学生時代の古い仲間、17人が集まった。
実は、展示室内での撮影は認められていない。
ここ数日の展示室内での島谷の作品写真も、初めは、係の人から「作家の方と関係がある方ですか?」、と言われた。「そうです。島谷の友達です」、と答え、認めてもらった。また、同館学芸員・西内裕詞さんのご配慮の故である。
島谷晃の夫人を囲み(島谷夫人は中央でしゃがんでいる人)皆で記念写真を。50年以上前の学生である。
後で気が付いた。早見堯夫妻が写っていない。どこかに行ったらしい。
この日の早見堯、島谷晃とともに主役のひとり。

早見堯、ここにもいない。

左側の二人は、早見堯夫妻。
早見夫人は島谷の喧嘩相手だった、という。昔、パリに住んでいたころ、やはり同じころ向こうにいた島谷晃とよく会っていたそうだ。島谷晃と早見堯夫人、会うたびに喧嘩をしていた、という。
右端の男・伊藤も島谷とはよく喧嘩をしていた。それも懐かしい。伊藤、闘病中であるが、以前に会った時よりは元気そうだ。よかった。
その左は、私・流山子である。いつお迎えが来てもおかしくない、という顔貌である。

私たちの仲間、さまざま語りあう。
中央上には島谷の作品が見える。≪My green earth(私の生命≫。2001年。アクリル。
このようなシチュエーションでは、島谷晃は大きな声でおやじギャグを飛ばしていた。
島谷も入れよう。

茅ヶ崎市美術館の島谷展の図録から、島谷の姿を複写する。
1991年であるから、島谷もまだ40代、50前のころである。島谷のこういう顔つき、眼に残っている。

今月5日の読売新聞夕刊には、こういう記事が載った。
茅ヶ崎市美術館学芸員・西内裕詞、こう記す。

昨日、13日の朝日新聞夕刊にはこういうものも。
茅ヶ崎市美術館での島谷晃展、朝読が関心を寄せる展覧会。それだけのものは充分ある。



茅ヶ崎市美術館、元はといえば、川上音二郎・貞奴の別荘跡地にある。
今は、サザンオールスターズの桑田佳祐の生まれ育った地、として知られる。
茅ヶ崎駅から美術館へ行く道の一本西の道は、サザン通り。その道がつきあたる海岸は、サザンビーチ。
その後、私たちは茅ヶ崎在住の男のナヴィで「居酒屋さざん」へ行った。


そうだ、忘れるところであった。
早見堯のことを。
早見堯、1、2か月に一度、その考察を発表している。
一昨日、12日、早見堯、その新しい考察をアップしている。
URLは、
   http://mirukotonoyuwaku.blogspot.jp
「見ることの誘惑」で検索していただく方がいいかもしれない。
一昨日の考察は、「連想する記憶喪失 ポロック「32番」1950年」。
早見堯、島谷の作品に絡め、講義をする。
文字通りの雑録である私とは異なる美術論、芸術論、学術的な論考である。
興味のおありの方は、ぜひどうぞ。



「まぼろしの翼ー 島谷晃展」の図録表紙。
素晴らしい展覧会である。
茅ヶ崎市美術館の学芸員・西内裕詞、その図録の中でこう語る。
<島谷さんが描くのは、鳥や人、それをとりまく自然が、侵されてゆくことに対する怒りの眼差し。・・・・・そうしてそれを「怒りの目」で表現し、わたしたちに訴え、眼醒めを促してくれることを、見て、感じていた>、と。



「−まぼろしの翼ー 島谷晃展」、今月末、31日まで開かれている。
茅ヶ崎、東京駅から東海道線で1時間ばかり。
ぜひ、お出かけを。