イチロー。

曇り、晴れ。
昨日、イチローが、また記録を作った。
大リーグでの9年連続200安打。108年ぶりの記録更新だという。5年前の年間最多安打の、84年ぶりの記録更新も凄かった。いずれも、100年前後の間、並みいるメジャーリーガーの誰もが成しえなかったことを、イチローが成した。
メジャーリーガーで年間200安打を打てるのは、年2〜3人しかいない、という。2001年アメリカに渡って以来毎年、9年連続、どれほどの記録なのか、凄いと言うしかない。
記録は、いつかは必ず破られるもの。イチローの記録もいつかは破られるだろう。しかし、それは、おそらく30年か50年後であろう。バッティングの技術がいかに進歩しても。ストライクゾーンに関するルールがどのように変わろうとも。
記録更新の200安打目は、ショートへの内野安打だった。内野安打率29パーセントという、イチローらしい安打。足で稼いだ安打だった。実は、私は、記録がかかった200安打は、ライト方向へ思いっきり引っぱるのではないか、と思っていた。199安打目のような、ライト線いっぱいに入るようなライナーを予想した。場合によっては、ライトへのホームラン、ということまで考えた。今までのイチローを見ていて、このホームランはどうも狙って打ったものだな、と思えることが何回かあったからである。
しかし、イチローは、レフト方向への打撃を選択した。三遊間を抜くか、内野手の頭を越すようなバッティングを選択した。たとえ野手の正面をついても、足が活かせる確率の高い方向へのバッティングを選択した。イチローらしい。常にナンバーワンを目指すイチローらしい選択、バッティングだと思う。
「解放されましたね。達成することで解放されたことが僕にとってうれしい」という、試合後のイチローの言葉が、それを表している。イチローとはいえ、いかに200安打目を打つのが大変なのかが解る。
日刊スポーツを見ていたら、ひとつ驚いたことがあった。一面から終面へぶっ通しのデカイ見出しには、驚かない。スポーツ紙としては、当然だ。驚いたのは、中面に、イチローの視力が、左右共0.4だ、と記述されていたからである。
イチローが何故あれほど打てるのか、バット・コントロール、俊足、に加えて、今まで多くの人は、彼の並はずれた動体視力の良さ、を挙げている。そうだと思う。しかし、いかに、人並みはずれた素晴らしい動体視力であろうとも、基礎となる視力が0.4では、ボールを良く見ることができるのか。しかも、両眼共0.4という視力で。
以前は、コンタクト・レンズを使用したこともあるが、合わないので、今は使っていないという。視力0.4では、車の免許さえ取れない。不思議だ。
ヒョッとしたら、イチローは、ボールを見ていないんじゃないか。ボールを感じているんじゃないか。ボールの気配、いわば、「気」を感じ取っているのじゃないか、と思う。昔の剣豪のように、相手の剣先の「気」を瞬時に感じとり、それに反応しているのではないか、と思った。
ボールを見ている打者は、どんなに凄い選手でも1シーズンに200本のヒットを打てる人は、2〜3人。それを9年間もの間やり遂げるのは、ボールの「気」を感じることのできるイチローのみ。次元が違うんだ、きっと、と思った。
記録を達成したイチローは、一塁ベース上でヘルメットを取り、静かに手をあげた。いつも何らかの記録を作った時のように。求道僧のような感じを受けた。野球選手であって野球選手でないような。
この同じ日、松井秀喜は、24号ホーマーを含む3安打、5打点、と活躍した。実は、私は、イチローよりも松井のフアンである。イチローが、いかに凄い記録を成し遂げても、それは変わらない。
しかし、松井は、素晴らしいバッターであるが、イチローは、まったく別次元のバッターである。松井は、メジャーリーガーと競っていく男、だが、イチローは、ひとり荒野を行く男である。
メジャーリーガー、何人いるのか、また、今まで何人いたのか知らないが、唯一別次元の人間であろう。