主従二人(那古の浦)。

曇り。
7月13日(新暦8月27日)、主従二人は、一夜を過ごした市振を発つ。
この日は、滑河というところに泊まり、翌14日は高岡に到るが、その2日間、『おくのほそ道』には、こうある。
<くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出>、と芭蕉は書いている。
黒部の数多くの川を渡って、那古という浦に出た、ということだろう。このあと続けて、担籠の藤波(現在の氷見)というところにも行きたかったのだが、土地の人に尋ねたら、「ここから磯づたいに5里ほど行った山陰にあるが、そこは、漁師のあばら屋しかないところなので、泊まることはできないだろう」とおどかされて、行くのは諦めた、と記し、<かがの国に入>、と続ける。
そのあとに、
     わせの香や分入右は有磯海
の一句を記す。
早稲の芳しい香りを利きわけて加賀の国に入ると、右手の方には、有磯海が広がっているな、ということだろうか。
山本健吉によれば、有磯海は、万葉の昔、奈良時代に大伴家持が歌に詠んだことで知られる地であり、芭蕉が行きたくて行けなかった担籠の藤波も、越中守であった家持が好んで遊覧した地であったそうだ。
山本が、私の副読本であるグラフィック版『奥の細道』の解説に引いている家持の歌を、二首写してみる。
     東風いたく吹くらし奈呉の海人の
       釣する小舟漕ぎかくる見ゆ
                      大伴家持(万葉集)
     かからむとかねて知りせば越の海の
       有磯の波も失せましものを
                      大伴家持(万葉集)
いずれにせよ、大国・加賀の国に入った芭蕉の挨拶句。有磯海への憧れの気持ちが加わったこの「わせの香や・・・」の句、山本は、<『奥の細道』紀行中、有数の秀句である>、としている。
ウーン、そうか。万葉の歌枕を念頭に詠まれた奥深い句ではあろうが、私のような凡なる男には、単なる写生句のようにも見えるのだが。しかし、碩学・山本健吉が、有数の秀句、というのだから、そうなのであろう。
では、私の参考書である『芭蕉紀行』で嵐山光三郎は、何と言っているのか。<佐渡の荒海とはちがって、こちらはおだやかな海だ。その有磯海へむかう高揚感にあふれている>、と記している。
ついでながら、嵐山は、昨日触れた市振で、<右手に岩波文庫『おくのほそ道』、左手にポケットウイスキーを持ち、海風をうけて上等の気分で砂浜を歩きまわった>、と書いているが、ここ那古の浦でも、同じようにしたのだろう。
なお、曾良によれば、この二日間、13日は、<暑気甚シ>、14日は、<暑極テ甚>(『旅日記』)、と記し、14日には、<翁、気色不勝>、とも書いている。
現在の暦で言えば、8月の27、28日。とても暑く、芭蕉の体調も勝れなかった、ということがよく解る。