主従二人(金沢、続き)。

曇り、晴れ。
昨日の続き、金沢で一笑の死を知り、その追悼句を作った芭蕉、そして、一笑について書く。
『おくのほそ道』の金沢の条に記されている三句の内、先ず初めの句は、
     塚も動け我泣声は秋の風
である。
塚も動いてくれ、一笑の死を知り、それを悼む私の慟哭の声は、寂しく吹く秋風のように、深く悲しい、とでもいうもの。すさまじい哀悼句、追悼句である。
しかも、芭蕉と一笑は、会ったことがない関係だったらしい。金沢と江戸、手紙のやりとりはしていたのであろう。いつの頃からか、どの程度の頻度でかは解らないが。芭蕉が、いかに若い一笑に会うことを楽しみにし、死を知り、それが叶わなくなったことを、いかに悲しんだかがよく解る。このようなことは、いつの時代でもある。
なお、山本は、芭蕉が一笑の死を知ったのは、金沢に着いた7月15日(新暦8月29日)としているが、嵐山は、金沢に入る前に知ったと記し、<金沢に立ち寄ったのは一笑追善が第一の目的であったろう>(『芭蕉紀行』)、とまで書いている。
この「塚も動け・・・」の句は、7月22日(新暦9月5日)、一笑の菩提寺である願念寺で行われた追善句会で発表されたもの。
曾良は、こう書いている。<一笑追善会、於願念寺興行。各朝飯後ヨリ集。予、病気故、未ノ刻ヨリ行。暮過、各ニ先達テ帰。亭主ノ松>(『旅日記』)、と。この時、曾良は病気だったようで、皆さんは朝から集まっていたが、自分は病気だったので、午後2時ごろに行き、夕刻皆さんよりも早く失礼した、ということらしい。
また、亭主のノ松(べっしょう、と読むようだ。難しい読みだ)は、一笑の兄で、彼がこの追善句会を主催した。また、彼・ノ松は、後年、この追善句会の模様を纏めた、弟・一笑の追善集を刊行している。
若く死んだこの一笑という男、芭蕉を虜としたばかりでなく、兄にとっても自慢の弟であったのであろう。
少し長くなるが、この「塚も動け・・・」の句について、山本が書いていることを所どころ書き出してみる。
<この句にはその悲しみが激しく表出されている。・・・折からの秋風の響きは、さながら、自分の号泣の声とききなされる。「塚も動け」の句の表現は、まだ見ぬ人への哀悼句としては、誇張にすぎるという論もあるが、この句のように、誇張が極度に達すると、それは誇張でなくなるものらしい>、と。
さらに、<『奥の細道』の流としては、市振のくだりで恋に似た哀れを出し、ここでは、人間の死によるのっぴきならぬ別離の悲しみを描き出した>(『奥の細道』)、と述べている。
一笑の死、芭蕉の心を、激しく突き動かしたようだ。
なお、曾良の『俳諧書留』には、一笑追善として、
     玉よそふ墓のかざしや竹露     曾良
が、芭蕉の「塚も動け・・・」の句の後に記されている。
さて、二句めは、それに先立つ7月20日(新歴9月3日)、金沢の俳人、斎藤一泉の屋敷・松玄庵に招かれた折の句である。
     秋涼し手毎にむけや瓜茄子
初秋の涼しげな風の中、今日は折角のおもてなしの瓜茄子を、気儘にご馳走になろう、という即興句である、と山本は記している。たしかに、そのように思える。しかし、嵐山は、この句に関し、「・・・手毎にむけや・・・」イコール「手向け」で、風雅と擬しつつ一笑を追悼している、と述べている。そうか、なるほど。
それにしても、一笑という男は、と思わざるを得ない。
『おくのほそ道』所載の金沢での芭蕉の三句めは、途中吟と前書きをつけ、
     あかあかと日は難面もあきの風
が載せられている。
初秋の夕日は、あかあかと無情にも照りつけるが、そうは言っても、爽やかな秋の風が吹いてくるな、ということだろうか。
山本は、<この句には、古今集の名歌、「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」の心が流れている。いわば、本歌取の句である>、と述べている。そりゃそうだろう。その程度のことは、私でも解る。それよりも、嵐山の短い一行にインパクトがある。
彼は、この句に関し、こう書いている。
<「あかあかと・・・」にも、一笑への追悼の気持ちがある>、と。
なるほど、そうか。夕日、難面(つれなさ)、爽やかではあるが、もの寂しくもある秋の風、やはり、心の底で一笑を想い、追悼してるんだ。芭蕉は。解る。
なお、この間、7月24日(新暦9月7日)に金沢を発つまでの9日間、芭蕉は、地の文5行と3句以外何も記していないが、曾良の『旅日記』によれば、気候はずっと快晴、連日、金沢の蕉門の弟子連中が芭蕉を訪れたり、また、芭蕉を招いたりしている。曾良自身は、体調が勝れなかったようだが。
芭蕉自身、一笑を失った悲しみは悲しみとしてあったろうが、久しぶりに宗匠宗匠と遇されて、心安らぐ楽しい日々でもあったろう。