主従二人(小松)。

曇り、一時雨。
7月24日(新暦9月7日)、途中まで多くの人に見送られて、金沢を発った主従二人は、小松に着く。
翌25日、二人は太田神社(芭蕉は、太田神社と記しているが、多田神社、多太神社とも書くようだ)へ詣で、源氏の武将、斎藤実盛の甲を見る。実盛が、源義朝から拝領したもので、後日、実盛が木曽義仲の軍との戦に敗れ、討たれた時、その木曽義仲自身が祈願状を添えて、この神社に奉納したものである。
そこで芭蕉が詠んだ句がこれである。
     むざんやな甲の下のきりぎりす
ああ、なんと痛ましいことだろう、という句である。義仲は、子供の頃、実盛に命を助けられ、育てられた、という因縁があるからである。戦の世である。討たねば討たれる、という世でもあっただろう。
山本健吉は、こう言っている。
<この句も初めは、「あなむざんやな甲の下のきりぎりす」であった。いつ推敲したかわからないが、『猿蓑』には「あな」を削った形ででている。「あなむざんやな」というのは、謡曲の『実盛』に、実盛の首級を見て、樋口兼光がまず発する言葉なのである>、と記し、さらに、「きりぎりす」について、<いや、ほんとうにいたかどうか、わかったものではない。詩人の想像力は、ないものでも勝手に生みだしてしまう。一匹のキリギリスに、芭蕉は実盛の亡魂を見た>、と。
作為、不作為を超えた芭蕉の工夫、いや、作為じゃないか。このぐらいは軽いもの、という。
この日、このあと、山王神社の神主である藤井伊豆の屋敷で、10人による句会を開き、そこで、
     しほらしき名や小松吹萩すすき
を詠む。
小松とは、なんと可憐な名前であろう。その小松に秋風が吹き、萩やすすきがなびいていることよ、風情があるなあ、という意だそうだ。
その翌日の26日には、ひどい雨だったそうだが、歓水という人に招かれ、50句の連句を行ったことを、曾良は書いている。その時の句会での句が3句、曾良の『俳諧書留』にある。
     ぬれて行や人もおかしき雨の萩     翁
     心せよ下駄のひびきも萩露      ソラ
     かまきりや引こぼしたる萩露     北枝
この北枝という人は、金沢から芭蕉主従にずっと付き添っている男である。岩波文庫の『おくのほそ道』の校注をよく見てみると、立花という姓の人で、金沢の刀研師であり、蕉門十哲の一人、とある。どおりで、このところ、ずっと付いていたんだ。