京都・洛西苔めぐり(8) 化野念仏寺(続き)。
途中となった化野念仏寺のことを続ける。
くねった土塀の向こうに竹林があるところであった。
ここにも竹林で囲まれた細い道があった。
上っている。
大きなカメラを持った若い男が二人いた。Tシャツも半ズボンもお揃いで、顔つきもお揃いのように似ている。竹林の道に女の子を立たせ、シャッターを切っている。
訊けば、台湾から来た、と言う。
京都・嵯峨野の竹林でにっこり微笑む女の子という構図のようだ。
4年近く前熊野巡りをした折り、紀伊勝浦のマグロ料理屋にあった「世界遊」という台湾の旅行ムックを思いだした。マグロ定食を食ったその店のこともそこに載っていた。
嵯峨野の竹林での微笑みも、台湾の旅行ムックに載るのかもしれない。
こういう立札がある。
「角倉素庵の墓」とある。
角倉素庵、角倉了以の息子である。
司馬遼太郎『街道をゆく26 嵯峨散歩』の中で司馬遼太郎、こう記している。
<江戸期の本に −書名は忘れたがー 京都は奇傑大豪の出る地だという表現があったように記憶する。角倉了以(1554〜1614)こそその最たる典型といっていい>、と。
医者であり、造り酒屋であり、金融業を営み、海外貿易業も行い、帯座の座頭職でもあり、・・・、・・・、何より気の遠くなる金額を投じて治水事業を行っている。
シバリョウ、このような経済感覚を持った改革者が好きである。
息子の角倉素庵も凄い。
<素庵が江戸初期きっての知識人で、・・・・・、京における学芸の保護者として第一等の存在だっただけでなく、学友の林羅山を世に出す機会をあたえたことは、・・・・・、・・・・・>、とシバリョウは記す。
司馬遼太郎、角倉了以と素庵親子のことを、朝日文庫の中で12ページに亘って記している。
日本国、そして日本国民の先生役を担った司馬遼太郎に対し、私ごときがこう申すのはとてもおこがましいのであるが、司馬遼太郎の文章を読み、「シバリョウ、気が高ぶり、興奮しているな」、と感じることがある。角倉了以、素庵親子に対する記述にもそれを感じる。
だから、面白い。
ところで、角倉素庵の墓は分からなかった。
ひょっとすると、この竹林のどこかにあるのかもしれない。
寺務所の前に大きな貼り紙があった。
これである。「豆腐」と記されている。
豆腐、確かにそうである。私も、豆腐が好き。
実は、嵯峨野、豆腐の地でもある。司馬遼太郎も「嵯峨散歩」の中で「豆腐記」という一節を設けている。嵯峨野で焼き芋なんてものを食った私と異なり、天龍寺の塔頭で湯豆腐を食っている。さすがシバリョウ。
寺務所には、こういう貼り紙もあった。
これも、まさしく、そうであります。
西院の河原に別れる。
化野の「あだし」とは、はかないとか、むなしいという意である。
古来よりの葬送の地・化野、夕刻となりその感深まる。帰ろう。
このような来た道を戻る。
私の他誰も歩いていない。
だんだん腹が減ってきた。
昼はトロッコの駅前で焼き芋とソバを半分食ったのみ。碌なものを食っていないし、少ししか食べられないので、すぐに腹が減る。幸いにもうどん屋があった。通る人もいないのに開いていた。助かった。とろろうどんを食った。
時間は5時に近い。
角倉了以が伏見城の「薬医門」を移築した二尊院の総門は閉まっていた。
大河内山荘から天龍寺北門へかけての竹林の道に戻ってきた。
日中に較べ、人は少なくなっている。
中学生ぐらいであろうか、外国人の女の子が竹林の道に座り何かを描いていた。
この日、私が歩いた嵯峨野の社寺にピンクのマーカーをつけた。
天龍寺から化野念仏寺まで。
普通の人は化野念仏寺の後、鳥居本から大覚寺へ行くというのが通常の嵯峨野散策コースであるようだ。ホテルを出るのも遅く行動も遅い私は、大河内山荘もスルーし大覚寺へも行かなかった。嵯峨野の一日はこれで終わり。バスで五條烏丸のホテルへ戻り、ベッドでひっくり返っていた。
9時前、何か食おうと外へ出た。
前日の夜は京都駅ビルの上の伊勢丹の食堂街で食った。この日は四条河原町あたりで、と地下鉄で四条烏丸へ行った。
四条烏丸で地上へ出、河原町の方を見る。
烏丸から河原町への四条、京都の繁華街の中心部である。
と、コンチキチン、コンコンチキチン、祇園祭のお囃子が聴こえてくる。見ると、通りを挟んだ向こう、長刀鉾の文字が見てとれる。
四条烏丸、長刀鉾の会所である。
さすが祇園祭の山鉾巡幸の先頭をきる長刀鉾、京都の中心・四条烏丸でコンチキチン、コンコンチキチン、山鉾巡幸のお囃子のおさらいをしているんだ。
このように。
7月初めの京都、四条烏丸である。