高野・熊野・伊勢巡り(20) 反逆の熊野。

夜陰に紛れ酔っぱらって帰り、ボーとした頭で書いていると、やはり問題がある。
昨日のブログ、今日読みなおしてみると、幾つものミスがある。小さなことは、”まあいいか”でよしとする。しかし、2、3、どうしても気になるところは、手を入れておきたい。
まず、瀬戸内寂聴の『奇縁まんだら 続』に触れたところ。素晴らしい絵の作者名が、ころっと抜けている。
描いたのは、もちろん横尾忠則である。さすが横尾忠則、中上健次の特徴を余すところなく捉えている。中上健次そのもの。”真を写す”写真よりも、より”真”。
末尾の部分もおかしい。ゴールデン街のバー「まえだ」がらみの個所。肝心なことが記されていない。
問題は、中上健次とノーベル賞云々、ということなんだから。そこから、バー「まえだ」のママの復帰祝いのパーティーの話となり、中上健次が都はるみの手をとって舞台へ、とまでは書いている。
でも、その後のことが抜けている。中上が死んで2〜3年後に依頼されて書いた小文の後半部分が。
その当時、つまり、まだ中上健次が健在であった25年ぐらい前の頃、新宿ゴールデン街の飲み屋では、こういう話が流れていた。
「今、ノーベル文学賞の候補に挙がっている日本人作家が3人いる。一人は安部公房、一人は大江健三郎、そして、あと一人は中上健次である」、と。
その後、1992年、93年に、中上健次と安部公房が相次いで死ぬ。そして、残りの一人、大江健三郎がその翌年ノーベル文学賞を取る、ということとなった。
それはそれとし、私が記した小文「都はるみと二人の男」の末尾は、こういうものであった。
<もし、中上健次存命ならば、ノーベル賞を取ったであろうか>、と。
ここまで書かなければ、「そんな話、聞いたことはないぞ」、というR.H.を納得させることはできない。納得する、しないは別として。
酔ってなくともボーとしているのに、酔った頭で考えると、”ボー”の度合い増幅される、な。


今日のタイトル「反逆の熊野」へ行く。今日も酔っていることに変わりはないのであるが。
少し遡る。
本宮からバスで新宮へ来た。新宮駅近くのホテルで少し休み、夕刻の新宮の街中へ出た。ホテルで貰った新宮の略図を持って。

向うの方に何やら、並みでない建物が見えてくる。

それが西村伊作の家であること、すぐに分かる。
大正3年(1914年)、西村伊作自身が設計したこの建物、今、国指定の重要文化財である。
ボロッちいとも見えるが、とても味がある。

この庭への扉なども、とてもステキ。木を削り、彩色している。
西村伊作、幼少時、両親を失う。叔父の大石誠之助の下で育てられるが、一生働く必要のないほど莫大な、熊野川上流の山林資産を引き継ぐ。自由に生きる。
絵を描いたり、デザインをしたり、やきものを焼いたり、と。娘が学校へいく年齢になると、学校を創る。与謝野鉄幹、晶子などと共に。文化学院である。
50年ほど前の文化学院を知っている。大学ではない。文学部と美術部がある3年制の学校であった。お茶ノ水の駅から近い神田駿河台の文化学院、小ぶりな洒落た建物であった。今の模様は知らない。

西村伊作の家、現在、西村記念館として公開されている。
でも、私が訪ねた時には閉まっていた。

ここへも、すぐに行きついた。
「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会の碑。
右側の石柱は白くなっていて読めないが、「志を継ぐ」と記されている。

「大逆事件」、フレームアップされたものであった。
しかし、新宮でも、大石誠之助と成石平四郎が刑死した。国家に殺された。
下の方に、<なお、当記念館の主西村伊作(1884−1963)は、大石誠之助の甥で、幼くして両親を亡くし、誠之助に育てられ・・・・・>、とのことが記されている。


この碑、2003年に建立されたようである。
「志を継ぐ」の碑のデザイン・揮毫は、西村八知。西村伊作の三男で、文化学院の校長を務めた男。碑文・説明文起草の辻本雄一は、佐藤春夫記念館の館長である。

中上健次資料収集室で貰ったチラシには、大石誠之助に関し、このような記述がある。
ところで、フレームアップされたとは言え、大逆事件の後、佐藤春夫はこの一篇を書く。
「愚者の死」である。
     千九百十一年一月二十三日
     大石誠之助は殺されたり。
     げに厳粛なる多数者の規約を
     裏切る者は殺さるべきかな。
     死を賭して遊戯を思ひ、
     民族の歴史を知らず、
     日本人ならざる者
     愚かなる者は殺されたり。
     『偽より出し真実なり』と
     絞首台上の一語その愚を極む。
     われの郷里は紀州新宮。
     渠の郷里もわれの町。
     ・・・・・
     ・・・・・
     ・・・・・
     ・・・・・
佐藤春夫、反語を用いて反逆を試みている。


ところで、佐藤春夫記念館には、美味そうなさんまが何匹かいた。その一匹の横には、「くまの文化通信」というものがあった。
4ページのタブロイド紙。
これは、今年10月3日発行の第31号。最新号である。不鮮明であるが、トップ記事の見出しは「先住民アイヌ解放運動」。
紙面、激しい。戦い、反逆、60年代の学生新聞のよう。「反逆の熊野」なんだ。
速玉大社へ参り、佐藤春夫記念館へ行った後、熊野大橋から熊野川を見た。

川下の方。
河口、煙が出ているところがある。パルプ工場であるようだ。説明書にある。新宮、木材の町なんだ。
それはともかく、その先は海、熊野灘である。

川上を見る。
橋の上、雨に加えて風も強かった。傘が飛ばされそうな状況であった。
川上の方、ボーと霞んでいる。雨の中。
隠国・熊野、そのものを思わせる。
風雨の中の情景を見ると、反逆の熊野、ということを思わせる。



ネルソン・マンデラが死んだ。
世界中誰しもが敬愛していた。
数年前までの何年間か、時折り会う外国人がいた。
とても知的な白人の女性(その知的な人にして、3.11後の福島第一原発の事故の後、国に帰ってしまったが)であった。
それはともかく、ある時、歴史上尊敬できる人物は誰か、という話になった。
彼女がまず挙げたのは、ネルソン・マンデラとマハトマ・ガンジーであった。
否やはなかった。
先日よりインドを訪問されていた天皇・皇后両陛下、今日、帰国された。
何日か前、ラージ・ガートを訪れた時の映像がある。確か、フジテレビの夕刻の映像。

ラージ・ガート、暗殺されたマハトマ・ガンジーが荼毘にふされた場所である。
ラージ・ガート、聖なるところ。
両陛下ばかりじゃなく、皆さま靴を脱ぎ白い靴に履きかえられている。
知らなかった。ラージ・ガートには、私も二度訪れている。入る時には靴を脱ぐ。しかし、高貴な人と異なり、俗なる人である私たちは、裸足になって入って行く。
それはともかく、マンデラとガンジー、偉大な人を思い起こした。偉大なる反逆者であり、創造者であった。