高野・熊野・伊勢巡り(17) 佐藤春夫記念館(続き)。

佐藤春夫記念館、面白いところはそこここにある。

こういうコーナーがある。
佐藤春夫は、明治25年(1892年)、新宮の医者の家に生まれる。長男である。当然のこと医者に、という親の意に反し、若年の頃より詩歌の世界にはまりこむ。
ところで、新宮を代表する人物のひとりに大石誠之助がいる。やはり医者である。クリスチャンであり、リベラルな思想の持ち主。
そう、後に大逆事件に連座し、死刑となった人物である。その大石の招きで、与謝野寛(鉄幹)が二度新宮を訪れている。弟子や知己を引き連れて。

上の写真は、明治39年11月に訪れた時のもの。その3年後・・・・・
少し長くなるが、昭和43年、角川書店刊『日本の詩集7 佐藤春夫集』から引く。
<明治42年夏、大石誠之助の招きで与謝野鉄幹、生田長江、石井柏亭などが新宮にやって来て、講演会を開いたとき、当時中学五年生であった佐藤春夫が前座に駆り出され、演壇に立った。彼は・・・・・一席ぶったが、それはひとびとに虚無主義、社会主義を宣伝するものと見なされて、無期停学を命ぜられた。・・・・・。その留守中に中学校舎に放火事件があり、彼が背後から・・・・・。この事件は小さな新宮の町に、不良少年佐藤春夫の名をとどろかせるには十分だった>、とある。
故に、佐藤春夫、大逆事件に関しても、ごく身近な場で経験している。

佐藤春夫が師事した人物には、森鴎外、与謝野寛(鉄幹)・晶子、生田長江、永井荷風がおり、堀口大学、芥川龍之介、大杉栄、辻潤、高橋新吉などとは友人づきあいであったそうだ。
だがしかし、佐藤春夫と言えば、何と言っても谷崎潤一郎との交友である。写真左下は、その谷崎と佐藤。

昭和5年8月19日付けの大阪朝日新聞。
大きく<谷崎氏夫人をめぐる愛慾葛藤の清算>、という見出し。
<詩人の胸に燃えた思慕十年の熱情>、との詩人は、佐藤春夫のこと。<悩みつゞけた谷崎氏>、とあるが、必ずしもそうではない。
谷崎は谷崎で、夫人・千代の妹と情を通じていたのだから。それが、名作『痴人の愛』となり結実する。日本文学にとっては幸いなる事件である、と言えるかもしれない。
それはともかく、大阪朝日の<社会に聴く>、というところが面白い。
里見惇は、「朗らかな感じ 声明書通りの気持ちだろう」、と言っている。が、常ならぬ恋愛体験を持つお三方、柳原白蓮、川田順、武林無想庵の3人は、やや引いた感想を述べている。最後に山田耕作が、「外国では例の多いことですが、日本ではちょっと珍しいですね」、と語っている。

三人合議の上で、連名の声明書を出したんだ。このような。

暫らく前、映画『夏の終り』で触れた、瀬戸内寂聴著『奇縁まんだら』(2008年、日本経済新聞社刊)には、その背景がこのように記されている。絵は、横尾忠則の作。
名作『秋刀魚の歌』は、このような背景の中から紡ぎ出された。

「佐藤春夫記念館だより」第18号があった。今年9月1日発行の最新号。
巻頭記事は、「佐藤春夫の内山完造宛書簡」。福山大学名誉教授・久保卓哉という人の記述。
上海の内山書店の内山完造を通じ、魯迅と日本、中国文学と日本、ということを考察したもののようである。
お互いに、文学どころか文化の香りなど消え失せた昨今の日中関係を考えると、隔世の感がある。

佐藤春夫記念館の2階の窓から外を見る。
と、すぐそこに、速玉大社の神宝館の朱の色が見える。
熊野、新宮の一景である。


国立競技場最後となるラグビー早明戦、15対3、早稲田が勝った。
明治が終始押していた。ボール支配率も明治の方が勝っていた。どちらが勝ってもおかしくないゲームであったが、早稲田が勝った。
早稲田、らしからぬ戦いを挑んだ。早稲田、”タテの明治、ヨコの早稲田”、という永年のイメージとは異なる戦いをした。早稲田も”タテ”の戦法をとった。フォワード戦を挑む。
バックスも外への展開はせず、内へ切れ込む。キックもほとんど蹴らない。スクラム・サイドのアッタクを繰り返す。これが早稲田か、バックスへ展開しろ、と思うが、ほとんどない。
早稲田ゴール前の5メートル・スクラムは、今年もあった。早明戦では、堪えられない場面である。早稲田、耐えきりトライを許さなかった。何と、明治ゴール前の5メートル・スクラムもあった。早稲田、スクラム・サイドをついてトライを挙げた。内実は、スクラム・トライを狙っていたようだ。
何たること、ここ何十年の早稲田ラグビーとは、まったく異なる。
それでいいのかな。
間もなく大学選手権が始まる。その戦法でいいのか。
危惧する。