高野・熊野・伊勢巡り(23) 青岸渡寺。

熊野那智大社のすぐ隣には、青岸渡寺がある。天台宗のお寺である。

朱色の門をくぐれば、すぐそこは青岸渡寺の本堂・如意輪堂である。

青岸渡寺のパンフレットにある「那智山青岸渡寺通称那智山沿革」から、幾つかのキーワードを含むフレーズを拾う。
<仁徳帝の御代に印度より裸形上人が熊野浦に漂着し、・・・・・其後推古帝の時に大和より・・・・・。・・・・・神仏合体修験道場となっており、・・・・・三十三所霊場順礼が行なわれるようになり当寺が・・・・・>。
なお、この本堂そのものは、織田信長の焼き討ちにあったが、天正18年(1590年)豊臣秀吉が再建した、とある。桃山時代建築として、南紀最古の重文指定をうけた、とも。

この日も、時折り、雨脚激しくなった。

青岸渡寺、西国三十三番観音霊場の第一番札所である。

本堂に入る。

堂内、「西国 第一番札所 南無観世音菩薩」の提灯が下がる。

こちらにも。

こちらにも。
お堂の中、とても賑やか。

「祈 大漁」の文字も。
那智、勝浦や太地、漁師町が近い。

堂内の柱や梁には、千社札がベタベタ。

本堂を出ると、階段の下に山門が見える。
私は那智大社の方から来たが、青岸渡寺の方へ直接来る人はこの山門をくぐってくる。案外大きな仁王門である。
晴れていればその先に、おそらく、熊野灘が見えるであろう。

本堂の横を通り、少し歩くと・・・・・

ここへ出た。
一瞬、心が震えた。
なんと、雨に煙ってはいるが、那智の滝が、目の前に、突然現われた。
驚き、感動した。
なお、目の前の石碑には、西国第一番の御詠歌が刻まれている。
     補陀洛や 岸うつ浪は 三熊野の 那智の御山に ひびく滝つせ
そう、熊野は、補陀洛の地である。
那智の滝へ行く前に、補陀洛について考えなければならない。補陀洛とは、と。
本宮大社のところでも触れた豊島修著『死の国・熊野 日本人の聖地信仰』には、こうある。
<補陀洛というのは、梵字のPotalaka(ポータラカ)の音写で、補陀洛山(世界)とは観音菩薩の”浄土”の意である>、と。
補陀洛、浄土なんだ。
ところで、「日本こそ補陀洛であった」、と言っている男がいる。角川春樹である。角川春樹、事業家ではあるが俳人。いや、それ以上に怪人でもある。その怪人・角川春樹と中上健次の対談が面白い。
中上健次、角川春樹共著『俳句の時代 遠野・熊野・吉野聖地巡礼』(昭和60年、角川書店刊)である。中上健次と角川春樹、1984年12月に遠野で、翌85年2月に熊野で、4月に吉野で対談をしている。熊野では、2月の熊野の火まつりを挟み、「熊野 闇からのヴァイブレーション」というテーマで。
怪人・角川春樹、中上健次相手にバンバン直球を投げる。
<・・・・・裸形上人がインドあたりから流れ着いて、海上から見て、ここは補陀洛だと。補陀洛というのは、中上さんが言った通り、あれは死者の国なんだ。死者の国であり、同時に光り輝く聖地にもなっている。何で熊野詣でをあんなに必死に天皇がやっているのかというと・・・、大逆事件がここで発生したというのは、つまり熊野というのは貴と賤が逆転する場所だから。・・・・・>、と。
ところが不思議なことに、角川春樹と中上健次の話の中に、補陀洛渡海の話は出てこない。角川と中上、両者とも正面突破のタイプ、捨身なんてことは思いの外、と言うことかもしれない。
前記の豊島修著『死の国・熊野 日本人の聖地信仰』によれば、平安時代の貞観11年(869年)から近世、18世紀まで、那智熊野から渡海した人は42例を数える、という。
<補陀洛渡海は、観音浄土を意味する”補陀洛世界”に往生して、そこで永遠に生きようとする行儀である。しかし、実際には、・・・・・、”捨身行”として入水の形態をとったケースが多い>、と豊島修は記す。
補陀洛渡海、土佐あたりからも行なわれたそうだが、その大部分は熊野那智からであった、という。

一瞬の後、那智の滝、青岸渡寺の三重塔と共に現われた。
言葉を失う。

望遠を利かせる。
不鮮明ではある。雨に煙ってもいる。
しかし、まさに那智の滝。
明日、近づいていく。