岩手あちこち(19) 平泉(中尊寺)。

清衡、基衡、秀衡、泰衡、奥州藤原氏4代の栄華、約100年続いた。ついには鎌倉の軍勢に敗れるが、奥州の地に仏教文化の華を開かせた。仏国土・浄土世界を創り上げた。その極みが、中尊寺、なかんずく金色堂、と言えばいいだろう。
中尊寺は久しぶり。山道、まあ除雪はしてあり何とかなった。
中尊寺の参道、月見坂というようだ。参道を登って行くにつれ、幾つものお堂が現れる。

暫らく登った後、八幡堂の次に現れるのがこの弁慶堂。
最後の最後まで、主君・義経を護り、衣川での立ち往生、平泉に弁慶は欠くことができない。

少し行くと、物見に出る。
まださほど登ってはいないのだが、見晴らし台だ。薄っすらと雪を被った町の様子が見える。

オバさんが雪かきをしているが、天台宗東北大本山・中尊寺の山門。

中尊寺、嘉祥3年(850年)、慈覚大師円仁の開山である。
この堂宇は、その中尊寺山内の17ヶ院を包括する根本道場である本堂。

さほどの雪ではなかったが、本堂の前の境内には、大小幾つかの雪吊りがあった。

その付近には、お御籤を結んだ所や小さな絵馬をかけた所も。

参道を登る。このお堂は、峯薬師堂。

このお堂は、大日堂。

これは、鐘楼。但し、こういう説明書きがある。
<康永2年(1343年)に金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は長い歳月にわたる打鐘で窪み、現在この鐘が撞かれることはない>、との。
この後、かって経蔵に収められていた国宝の「紺紙金字一切経」や堂内具等を収めた宝物館である讃衡蔵を観、阿弥陀堂、弁財天堂を経て金色堂へ。

雪の中の金色堂。とは言っても、見えているのは、金色堂を覆う”覆堂、さや堂”だ。鉄筋コンクリートで造られている。
中に入ると、金ピカの金色堂。奥州藤原氏初代・清衡が天治元年(1124年)に建立した。中央の須弥壇の内に初代清衡、左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡のミイラと四代泰衡の首級が納められている。
須弥壇の上には、本尊の阿弥陀如来その他、多くの仏さまの像が並ぶ。
いずれも金ピカ、皆金色(かいこんじき)。螺鈿細工や蒔絵などもあり、贅を尽くした極楽浄土を現世に現した、とされている。しかし、私には、とてもそうとは思えない。
お寺や仏は好きだが、金ピカはキライ。金ピカなんて、趣味がよくない。しかし、困ったことに、本来の仏は、いずこの国でも、皆金ピカだ。好きではないが、奥州藤原氏4代が金ピカこそ極楽浄土、と考えたこと自体は理解する。

金色堂の側に、かって「中尊寺経」を収めていた経蔵がある。前方の建物である。
なお、左は、金色堂の覆堂の屋根。金色堂と経蔵の間に、2本の棒のようなものが見える。これが、

元禄2年(1689年)旧暦5月13日、高館に寄った後中尊寺に詣でた芭蕉、この句を詠む。
     五月雨の降りのこしてや光堂
時を経て読み辛いが、この碑、<延享3年(1746年)10月12日、仙台白英門人山目山笑庵連中建碑>、と言うことだだそうだ。

いいな、この色調。金色堂の旧覆堂である。
鉄筋コンクリートの今の覆堂など、味もそっけもない。火災対策であることではあるが。でも、この木の覆堂は、とてもいい。

金色堂の覆堂(さや堂)の変遷、これを読んでください。

旧覆堂の中へ入る。
中央に四角い柱が立っている。<藤原秀衡公、源義経、辨慶八百年遠忌菩提者也>、と墨書してある。

釈迦堂。
小ぶりではあるが、落ちついたたたずまい。趣きがある。風雪に晒されたその色調、美しい。

中尊寺鎮守白山神社能楽殿。前方の建物だ。国の重要文化財。

お寺に神社があるのは、よくあること。中尊寺もそう。その謂れはこういうこと。

その能舞台はこれ。
雪中ということもあろう。迫りくる存在感、凄い。これも、中尊寺。