岩手あちこち(20) 補遺。

数日前に出た復刊アサヒグラフ『東北が泣いた一年 2011.3.11〜2012.2』には、震災直後と1年近く経った現在の定点撮影写真が載っている。
大槌町、陸前高田市、宮古市、釜石市、山田町、気仙沼市、その他三陸の町々の。大分変ったな、というものもあるが、多くは、ガレキこそあらかた撤去されているものの、ウーンまだまだ、と思われるもの。1月下旬、私が見たものと同じ。
幾つかのルポもある。南三陸町の仮設住宅で暮らす、大正2年生まれ、98歳の佐藤キツヨさんというおばあさんの話がなかなかいい。
このおばあちゃん、震災後、3度目の避難先として、長男夫婦と3人で4畳半二間の仮設に移り住む。しかし、74歳の長男が1週間で体調を崩し、入院1週間で死んでしまう。癌も患っていたが、自宅他が流されたことでずいぶん落ち込んでいた。以来、長男の嫁との2人暮らし。
<息子の死に触れ、キツヨさんは初めてシワシワの手を目頭に当てた。潤んだ目から手を離すと、今度はマイルドセブンを口にくわえ、しゅぽっと点火した。「息子に怒られることもねぇから、すこし前に禁煙はやめたの。・・・・・眠れねぇときは小さく歌っこ歌うのよ。なんぼ案じても息子は帰ってこねぇから」>、と記し、続けて、
「今はどこさも行がれねぇ」、と言っていた仮設の外の砂利道が舗装された時、<歩いて出かける店もないが、キツヨさんは「まず徘徊してみっか」と笑った>、と記されている。
何もかも津波で流され、生き残った長男も仮設に入った直後に死なれ、禁煙はやめたのと言ってタバコに火を点け、道が舗装され歩けるようになると、まず徘徊してみっか、と笑い飛ばす。
東北人だ。東北の元気なおばあちゃんだ。東北の人、へこたれない人が多い感じがする。中には、ガクッときちゃう人もいないではなかろうが。概ね、へこたれない。

毛越寺のバス停の前に、こういう看板があった。
それぞれの写真には、こう書いてある。「しおれてちゃ男がすたる」とか、「埃も泥も思い出にする」とか、「かわりに気づいた宝もの」とか、といった言葉が。東北の人たち、強い。

”るんるん”と名づけられた平泉の循環バス(世界遺産がらみの所を循環する。とても便利)の窓には、このようなポスターが貼られていた。「祈り鶴プロジェクト」と書いてある。
折鶴を折ってもらい、その参加料を東日本大震災で親を亡くした震災孤児の就学支援に寄付をする、とのプロジェクト。
平泉、世界遺産で浮かれてはいない。内陸の平泉も岩手、三陸の町々も岩手、すべて岩手県である。そして、すべて日本である。
酷い被害を受けた三陸の復旧、復興には、相当の時間がかかる。しかし、時間をかけても、元に戻らないものもある。1週間ほど前の新聞に、JR東日本がこういう発表をした、という記事が載った。
大津波でガタガタにやられたJR大船渡線の気仙沼〜盛間と、釜石〜宮古間を走っていたJR山田線の復旧は難しい、バス路線を考えている、というもの。鉄道がなくなる地元は反発している。しかし、仕方がない。おそらく、無理だ。物理的理由ではない。経済的な側面から考えて。
盛から釜石への三陸鉄道南リアス線は、第3セクターが運営する鉄道だったようだ。しかし、この南リアス線の復旧も、おそらく、難しかろう。

三陸鉄道の旧盛駅の跨線橋の階段に、こういうものが貼ってあった。30万人運動。おそらく、書かれている文面から察するに、大震災の前からのものだと思われる。以前から、三陸鉄道の経営厳しい状態だったに違いない。東北、三陸の人は強い。しかし、受けいれなければならない状況は、受け入れなければならないだろう。盛の三鉄の人は、頑張っていたが。

女流書家・金澤翔子の手になる、岩手県の三陸復興に向けてのシンボルロゴ”三陸復興”である。力強い筆使いだ。
旧盛駅の”ふれあい待合室”にあったA4版のちらしから複写した。「いわて復興だより」というタイトルのちらし、その第11号には、”被災地で県政懇談会を開催しました”とか、”岩手県立博物館・文化財レスキュー事業”とか、”義援金の追加配分を実施します”とか、といったことが書かれている。”2016年岩手国体の開催を表明”、ということも。
岩手の人たち、頑張っている。1年近く経っても唸るだけ、というあれだけの災害にやられても。
既述の池澤夏樹著『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』に、面白い記述がある。池澤夏樹が、ある集落の住民集会を傍聴するところ。テーマは、津波で流された市街地をどこに再建するか、ということ。池澤、こう記している。少し長くなるが、
<浜の人(主に漁師)は海の近くがいいという。津波はしかたがないものだ。堤防は3メートルで充分(かっては6.4メートルの堤防があって、それは結局無力だった)。・・・・・聞いていて、漁師たちは原理的に運命論者なのかと考えた。農業や商工業に比べれば漁業の方が自然に近い営みであり、自然まかせ運まかせの部分が大きい。その分だけ達観しているというか、腰が据わっているというか。たまに津波が来るのはしかたがない、と言い切るのを聞いて感心した。・・・・・>、という記述。
たまには津波も来るかもしれない、と言い切る漁師に池澤夏樹、感心した、と書いている。
私は、大震災の被災地、三陸の一部のみしか行かなかった。津波に襲われた所の一部だけ。大震災のあと一つの主役、福島第一原発には触れなかった。原発問題、維持継続か廃止か、難しい。とても。
でも、フト思った。三陸の漁師のたまに津波が来るのは仕方ない、という言葉にどこか重なる。原発容認派の主張が。
安全性を高めた上での容認、誰しもが言うことだ。しかし、物事には完璧はない。無謬なんてことは、あり得ない。原発事故、無いかもしれないが、あるかもしれない。あっても仕方ない、と思う覚悟が求められる。三陸の漁師と同じ覚悟が。
あなたは、ありや? 私は、決めかねている。

中尊寺蓮。
奥州藤原氏第4代・泰衡の首桶の中から発見された、80粒近い種子の一つから開花させたものだ。このハスの花、毛越寺と中尊寺の間にある平泉文化遺産センターにある。800年の時を経て開花させた。
800年あれば、地震も津波も原発事故も、起こって何の不思議はない。それも歴史のひとこまだ。ただし、受け入れる覚悟の持ち合せはいる。
昨日、歯医者へ行った帰り、JRの駅に「行くぜ、東北」というパンフレットがあった。
「行くぜ、東北」、なかなかいいコピーだ。”おいでよ”でもなければ、”行こうよ”でもない。”行くぜ”だ。主体的な意志が伝わる。何より、直截だ。
物見遊山でいい。多くの人が東北の地へ行ってほしい。
1週間か10日程度と思っていた「岩手あちこち」、長くなってしまった。今日で終わる。