岡本太郎 100歳(続き)。

旧友が、沖縄から新宿へ来たので、夕刻出かけ、日を跨ぎ帰る。眠いが、昨日の続き。
<芸術は芸術から生れない。非芸術からこそ生れるのだ。これは私の持論だ>。
『日本再発見 芸術風土記』(昭和33年、新潮社刊)の中で、岡本太郎こう記す。また、同書の「日本文化の風土」では、こうも記す。
<現在は未来に残るものとして価値があるのではなく、すべて現在に賭けた実験である。それらはすべて必要で、存在理由がある。今日に意義のある実験は、我々にとっての価値だ。・・・・・>、とし、さらに・・・・・
<私の言いたいことは、現在、すべての実験が可能であるということだ。当然、それは危険だ。だから悪いんじゃない。危険だからこそ、やる。生甲斐なのだ。己の責任に於いて決断し、実行すること、それが直ちに芸術に関わってくるのである>、とも。
そう言えば、これも、存在理由のある実験だったんだな。

”こんにちは〜 こんにちは〜”、ご存じ1970年の万博。動けない人を除き、ほとんどの日本人が大阪へ行った。私も行った。そのシンボルとなった「太陽の塔」。
外ではあまり飲まないが、家でブログを書きだすと飲みはじめる。毎日のこと。で、ついでなので、太陽の塔にまつわる余談をふたつ。いずれも、大阪に関わる男のお話だ。
万博の時、当然、反万博の動きもあった。太陽の塔を乗っ取った男がいた。
太陽の塔に8日間籠城し、機動隊に捕まった北海道の男。2003年に太陽の塔を乗っ取った大阪生れのアーティスト、ヤノベケンジが、その男を訪ねている記事が、『すばる』の4月号、「太陽の塔を乗っ取った二人目の男」にある。ベトナム反戦の意思表示だった、と語っている。訪ねた先は、歓楽街のランジュリーショップ。
あとひとりは、笑っちゃう。やはり、大阪にいた物書き、高橋源一郎の話。
高橋源一郎、万博会場のすぐ近くに住んでいたそうだ。しかし、太陽の塔を見ていない、という。万博の期間中、警察の留置場に入っていたそうだ。全共闘のデモで捕まって。いつだったか、テレビでそう語っていた。
1970年、日本は、高度成長の真っただ中であったが、反戦、反権力の時代でもあった。
しかし、岡本太郎は、その中に突っ込んでいった。反ベトナム戦争の意思表示はしている。しかし、それよりも、己の存在理由である実験の方が重要である。そう考えたのだろう。
はっきり申せば、太陽の塔、私には、面白いが、オモチャのようにも見えた。

岡本太郎記念館、2階の今の企画展は、生命の樹。
太陽の塔の中にあったヤツ。一本の樹から、単細胞の生命から人間まで300以上の命が生れた、というもの。実物は立体だが、その平面は、この写真の左にあるようなもの。手前の敷物も、それに関するものだろう。

そのデッサン。

油彩によるエスキス。

ピントが合っていないが、ここにもご本人がいる。

近寄ると、お馴染みのこんな顔をして。
岡本太郎、文筆家である。さすが岡本かの子の息子。多くの書を上梓している。
その最後の書『一平かの子 心に生きる凄い父母』(平成7年、チクマ秀版社刊)に、こういう記述がある。
<小学校も高学年になる頃、・・・・・いっしょになって『黙阿弥全集』を読みあさったりしたものである。中学に入るか入らないの頃、ショーペンハウエルの論文集を読んだ。・・・・・>、と。
何日か前、中学に入った後、貸本屋で借りた講談本をよく読んだ、と書いたこと、恥ずかしくなってくる。小学生で、黙阿弥かよ。ショーペンハウエルは、私も読んだ。中学でなく、バカな高校時代だが。ありていに申せば、読んだというより持ち歩いていた、という方が正確だが。バカな時代だった。
ま、そんなことはどうでもいいが、岡本太郎、この書の中でこういうことを書いている。
<天才は憂うつと昂揚が周期的に激しく襲ってくるとか、概して背が低く猪首だというところなど子供ながらわが身にひきあてて、やっぱり天才なんだな、とうなずいたりした>、と。
なんちゅうことを書くんだ岡本太郎、普通そんなこと書くか。いや、そういうことを書けるヤツこそ、そうなのか。
酔いもまわり、解からなくなってきた。また、明日にしよう。