天才への道。

ポプラ社から、「のびのび人生論シリーズ」、というものが出ている。
おそらく、40年近く前から20年近く前にかけ、30数巻出されたようだ。何人かの著者名を拾うと、佐藤忠男、田辺聖子、加太こうじ、椋鳩十、田中澄江、佐藤藤三郎、羽仁進、・・・・・、いかにも、という名が並ぶ。
その第23巻が、赤塚不二夫著『落ちこぼれから天才バカボンへ』。発行年月は、1984年3月。ルビが多くふられている。
もちろん、昼夜を隔てぬ酒盛りや、オカマクラブでの乱痴気騒ぎ、ましてや、四文字言葉などは出てこない。ポプラ社の本だ。
半分以上は、トキワ荘時代のこと。そして、残りは、ヒットを飛ばしたその後のこと。赤塚不二夫、とても生真面目に書いている。手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森章太郎、長谷邦夫、つのだじろう、・・・・・、などとのことごとが、優しい思いで語られている。
手塚治虫には、先生を付け、寺田ヒロオには、先輩を付けているが、後は、同列。石森章太郎など、赤塚より3つも年下なのに、トキワ荘時代の赤塚、石森の食事や洗濯をし、無給のアシスタントをしていた、という。赤塚、石森のことを、どこだったか、石森は天才、と言っている。
この書の終わりの方に、<『少年サンデー』の担当記者が新人にかわった。・・・・・新人というからはちょっととおい、だいぶスレた感じの青年だった。・・・・・これが武居記者だった>、という記述がある。

『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』の原作は、武居俊樹の『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』。2005年に文藝春秋から刊行されたもの。シネコンで映画を見た後、同じモールに入っている大型書店で、その文庫本を買った。
映画の製作に合わせ増刷されたものだろう、平積みになっていた。駅前の本屋が消えてから久しい。地方都市でも、本屋は、シネコンのあるショッピングモールの大型書店になってしまった。
それはともかく、映画では、赤塚番の記者、女性になっていたが、実際は、武居俊樹。武居俊樹、小学館での赤塚不二夫担当の6代目。読むと、これが面白い。武居の小学館への入社は、映画より1年早く、昭和41年。出身は、バカ田大学。
初めてフジオ・プロへ行った日、長谷邦夫からいきなり、こう聞かれる。「大学どこ?」、と。「早稲田です」、「現役?」、「いえ、一浪して一留してます」、というくだりがある。一浪で入り、留年もわずか1年では、バカ田大学では、そう大したものではない。まあ、普通。
しかし、武居俊樹、バカの潜在的能力はあった、とみえる。その後40年以上、天才・赤塚不二夫に寄り添う。

ルビがいっぱいふってあるポプラ社の本とは、違う。文春文庫の武居の書、ルビなどはない代わりに、赤塚不二夫のハチャメチャな天才ぶりが描かれる。
初っ端から、「アイデア」、と称する企画会議に引っぱりこまれる。赤塚不二夫はじめ、長谷邦夫、古谷三敏、北見けんいち、その他のフジオ・プロのスタッフと共に。
1〜2万借りたぐらいで、「オイ、返せよ」、というくせに、経理担当に裏切られ、2億の金を取られたのに、「まあいいよ。また漫画を描けばいいんだから」、で済ましてしまう赤塚不二夫。もちろん、日夜の酒盛り、バカ騒ぎ、天才・赤塚不二夫に寄り添った日々が綴られている。
私が仕事をしていたころ、お付き合いいただいた人のことも、何人か出てくる。とても懐かしい思いがした。私が働いていた会社、中小企業であったが、出版業界との付き合いが多かった。いろんな出版社と付き合った。が、小学館にはイヤな思いがない。好きな出版社だった。小学館の人たちも。

樺島基弘という名が出てくる。
武居俊樹は、小学館の6代目の赤塚不二夫担当だが、初代の赤塚担当は、樺島基弘だとある。知らなかった。私が知っている樺島さん、もう現場を離れた人であったが、温厚な人であった。私よりは大分年上の樺島さん、小学館を退社した後も、死ぬまで年賀状をくれた。
赤塚不二夫、樺島さんについてこう言っていたそうだ。「樺ちゃんを、一生忘れない。新人時代、文字通り心血を注いでオレを育ててくれた、魂の編集者だ」、と。
樺島さんについては、ポプラ社の本の中でも、赤塚不二夫こう言っている。
<歯がわるくて医者にかかってばかりいる樺島記者は、しょっちゅう、スカスカと気がぬけたような発音をしていたから、それがヒントになって、「シェー!」という、とってもチンケなセリフをいわせたのかもしれない。おかげで、たいへんな流行語になって、・・・・・樺島記者のおかげといえる>、と。
子供向けのポプラ社の本ではそう言っているが、ルビのない本では、赤塚、こう言っている。
<樺島には徹底的にしごかれた。さすがのオレもベソをかいたほどだ。・・・・・ちょっとだけ、歯が出ていたんだ。イヤミのモデルは、樺島記者だよ>、と。そうは思わなかったが、温厚になった私の知る樺島さん、そう言えば、少し出っ歯だったかも。
「入社試験受けずに小学館へ入ったの、あなただけだよ」、と武居俊樹が言い、”楽し〜て、社長にな〜る”、と歌いジュニアをはっきり指さした、と武居が書いているジュニア・相賀昌宏も出てくる。年に数回会っていた。
年に一度の帝国ホテルでの小学館のパーティー、三笠会館でのさいとうプロの新年会、あと1、2回、いずれもどこかのパーティーで。
さいとう・たかを先生の新年会には、運動靴を履いてくることもあった。小学館にとっては、端境期だった。先代社長を支えていた人たちが次々リタイアし、つぎの世代がまだ根付いていない時代だった。社長になった相賀昌宏さん、ポツンと寂しげでもあった。
そのような時には、話をした。「今、こういうことを考えているのですよ」、なんて企画の話をしていた。私も、仕事から離れ時間が経つ。先般、講談社の若社長が誕生した折り、相賀昌宏さん、エールを送っていた。相賀昌宏さんも、地に足がついてきたな、と思った。
あとひとり、長谷邦夫についても書こう、と思っていたが、眠くなった。
長谷さん、小学館とは関係ないが、下落合のフジオ・プロにお尋ねした。ご自身、漫画家だが、赤塚不二夫の分身であり、マネージャーのような人だった。ビジネスセンスのある人だった。2〜3回会っただけだが、その後、フジオ・プロとは決別したそうだ。
眠くなった。世間と離れた年寄りの思い出話、やめよう。