流山子雑録     『酔睡胡乱』

国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティックロシア展。


北方領土4島の返還をめぐり、安倍晋三はプーチンとの間で駆け引きをしているが、ロシアって国は一筋縄ではいかない国である。
帝政ロシアのロマノフ王朝が倒れ、約70年に及ぶ共産主義国家・ソビエト連邦が続いた。そのソビエト、1991年12月25日に崩壊した。
それ以前、その年、1991年8月19日、クリミヤ半島の別荘で休暇中のソ連のトップであるミハイル・ゴルバチョフが襲われ軟禁される。守旧派によるいわゆる「8月クーデター」である。
「クーデターは認められない。ゴルバチョフを開放しろ」、と迫ったのはエリツィンであった。後の酔っ払い姿が世界中に知られるエリツィン、この時にはカッコよかった。戦車の上に飛び乗り、クーデター派の兵士たちを説き伏せていた。
時代は、ゴルバチョフからエリツィンへと流れていく。
しかし、1993年10月、守旧派による反エリツィンの動きが高まる。反エリツィンの守旧派、「ロシアのホワイトハウス」と呼ばれるロシア共和国最高会議ビルに立てこもる。モスクワ中心部を流れるモスクワ川沿いにある。エリツィン、モスクワ川の対岸から守旧派の立てこもる「ロシアのホワイトハウス」へ戦車による砲撃を命じる。「ロシアのホワイトハウス」はボコボコになり、守旧派は制圧された。今、「10月政変」と呼ばれる。
そのエリツィンが自分の後継者としたのがプーチンである。ソ連のスパイ組織・KGBの一員であったプーチン。なまなかな男ではないよ、安倍晋三。
それはともかく、この1993年の「10月政変」の半年後、1994年の5月、ゴールデンウィークにモスクワへ行った。
モスクワは混乱している。市場には商品が並んでいない、と言われていた。が、それほどではなかった。ただ、「ロシアのホワイトハウス」は建物の全面、戦車の砲撃による砲弾痕だらけであった。
実は、モスクワ市内を流れるモスクワ川の「ロシアのホワイトハウス」の対岸のホテルに泊まっていた。ホテル・ウクライナというバカでかいホテルであった。スターリン様式というバカでかい建物がソビエト時代に造られた。セブン・シスターズと呼ばれモスクワ市内に7棟ある。モスクワ大学を含め。今は4つ星ホテルになっているが、そのころにはただバカでかいという印象しかない。


それはそうとして、今日は何を記そうとしたのだっけ。
ああそうだ、トレチャコフ美術館のことであった。
1994年の5月、ロシアへは団体ツアーで行ったのだが、案外自由度の高いツアーであった。1日、美術館や古本屋へ行った。今はどうかは知らないが、そのころのモスクワの地下鉄、ロシア語の表記しかなく往生した。まあ分からない。苦労しながらトレチャコフ美術館へ行った。あっぷあっぷしながら。
が、トレチャコフ美術館は素晴らしい美術館であった。
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渋谷文化村の美術館。
国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティックロシア展。
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春、夏、秋、冬、ロシアの自然を追っている。ロマンティックロシアだ。
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今展の目玉、イワン・クラムスコイ<忘れえぬ女」>。
「また お会いできます」、と。
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力強い3頭立ての馬橇・トロイカ、ロシアの冬の風物詩である。
ニコライ・サモーキシュの≪トロイカ≫。ロシアの力強い冬景色である。
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アントニーナ・ルジェフスカヤの≪楽しいひととき≫。孫と祖父の様、幸せな構図。
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トレチャコフ美術館を訪れたおり求めた小さな書。
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こういう展示であった。
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同書からイワン・クラムスコイの≪忘れえぬ女≫。
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イワン・シーシキン≪正午、モスクワ郊外≫。
19世紀半ば、ロシアの大地である。
音声ガイドもよかった。
バックにラフマニノフのピアノ曲やロシア民謡が流れた。
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今回は来ていないが、実はトレチャコフ美術館の所蔵作品で最も知られているのは、イコンである。
アンドレイ・ルブリョフのこのような。


池江璃花子が白血病であることを公表した。
驚いた。東京五輪の日本のスターのひとり、いや、最大の星であった。オールラウンダー、幾つものメダルが期待されていた。何ということ。言葉がない。
白血病、渡辺謙は復活した。しかし、夏目雅子や本田美奈子のことが頭によぎる。
池江璃花子、病に向き合うという。
18歳の若者、代わってやりたい。切に思う。

流山子雑録     『酔睡胡乱』

フェルメール展。


フェルメールがスーパースターになったのは、いつの頃なのか。100年前か200年前か、あるいはもっと前か。ここ何十年か、そのスーパースターとしての立ち位置、不動のものとなっている。
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上野の森美術館の前。
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フェルメールの作品、現存するのは35点程度と言われている。その内、8点が来ている。ということであったが、あと1点が付けたされた。
リタイアした後、2007年に1か月間ヨーロッパを歩いた。アムステルダムへも行き、アムステルダム国立美術館でフェルメールの作品が4点並んでいるのを観た。いずれも小さな作品であった。
オランダは小さな国である。さほど離れていない≪真珠の耳飾の少女≫のあるデン・ハーグのマウリッツハウス美術館へも行きたかったが、行かなかった。ロンドン、ベルリン、ケルンを経てアムステルダムへ入ったが、風邪を引いて疲れてしまったから。諦めた。
が、3、40年の間あちこちへ行っていたので、その間、アムステルダム国立美術館の4点を含めフェルメールの作品は半数少し観ている。ロンドンのナショナルギャラリーで、ルーヴルで、ベルリン国立美術館で、ドレスデン絵画館で、ウィーン美術史美術館で、メトロポリタン美術館で、計18点。で、私のフェルメール度、18/35となる。
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ここから入る。
何やらこっそりって感じだな。
フェルメールの作品は9点。同時代、17世紀のオランダ絵画約50点が来日している。
私は、この上野の森美術館があまり好きじゃない。狭いんだ。案の定、フェルメールに辿りつくまでは、久しぶりにぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗った状態であった。
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≪牛乳を注ぐ女≫。
窓辺。そこから差しこむ光、フェルメールをフェルメールたらしめているところ。
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≪手紙を書く婦人と召使い≫。
やはり窓からの光。
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≪赤い帽子の娘≫。
右側からの光。
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≪手紙を書く女≫。
400年近く前、17世紀半ばのフランドルの女性。この黄色い衣装もフェルメールだーって思いを抱かせてくれる。光はもちろん左側から。
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≪真珠の首飾りの女≫。
これも「ザ・フェルメール」といった作品だ。
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≪マルタとマリアの家のキリスト≫。
聖書に題材を取った唯一の作品。小品が多いフェルメールの作品の中では、天地158.5、左右141.5センチと最も大きな作品。
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≪リュートを調弦する女≫。
左側からの光を受けている女。女の衣装は黄色い。古い楽器であるリュートの調弦。後ろの壁には地図がかかっている。フェルメール好きには堪えられない。
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≪ワイングラス≫。
女が口に運ぶワイングラスはほとんど空で、男がつぎ足そうと待っている。どうも男には下心があるようだ。なぜなら・・・
<部屋の窓の紋章には、馬の手綱を持つ女性が描かれる。この女性像は「節制」の擬人像で色恋沙汰を戒める寓意であるという>、と説明書きにある。いつの時代も変わらないものだ。
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当初フェルメールの作品が8点来日で、8/35となっていたものが、この作品が追加出展された。で、8をバッテンで消し、9/35としてある。芸が細かいと言えばいいのか、えげつないと言えばいいのか。
≪取り持ち女≫がドレスデン絵画館から来日した。
画題は見ての通り。<フェルメールが主要画題を歴史画から風俗画へと転じる画期となった作品>、と説明書にある。これもフェルメールかってものに、私には思える。
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「日時指定入場制」は、とてもいいシステムである。他の展覧会でもどんどん取り入れるべきであろう。それでもぎゅう詰めであった。入る日時は決まっているが、閉館時間まで出なくてもいい、ということであるからだ。いっそ総入替えにした方がいい。
チケットは前売り2500円、当日2700円と通常の展覧会より高い。が、小冊子と音声ガイドが付いているので、まあいいかであろう。
音声ガイドは石原さとみが起用されていたが、イマイチ。さしたるものではなかった。

流山子雑録     『酔睡胡乱』

ムンク展 共鳴する魂の叫び。


昨日、途切れちゃった。以前と同じようにはいかない。
先ほどは、「メンテナンスを行っております。ご迷惑をおかけいたしますがご了承ください」、なんてものが現われ、暫らく写真の取りこみができなくなった。
「はてな」はどうしてシステムを変えたのであろう。利用料金はどうも倍ぐらいになるようだ。運営企業である「はてな」の収益が増えるのであろうから、企業論理としては理解できる。さまざまなサービスが追加されたらしいが、さまざまな電化製品と同じく、加えられたサービスなんかほとんど利用しないよ。ま、大した額ではないからまあいいが。
操作が解かりづらいのでイラつくが、ムンク展、続ける。


ムンク展、とても面白い展覧会であった。想像を遥かに超えた。
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上野公園、ムンク展のタテカン。
ムンク回顧展なんだ。
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ウィークデーの日中であったが、40分待ち程度なら致し方ないか。
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都美術館の中には、何台ものモニターがあり、ムンクのことごとを流している。
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ムンクって言えば「不安」だな。
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ムンク、多くの自画像を描いている。
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≪赤い蔦≫。
会場へ入る前に、ムンクのことをひと通り勉強させてくれる。
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そして、≪叫び≫の初来日なんだ。
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ところで、「叫び」って・・・
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そうなんだ。
会場に入る前に、十分お勉強をさせていただける。
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≪夏の夜、人魚≫。
1893年 油彩、カンヴァス。
生まれ故郷・ノルウェーとパリやベルリンを行き来しながら、人間の内面を描きだそうとしているころの作。
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≪マドンナ≫。
1895/1902年 リトグラフ。
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≪病める子Ⅰ≫。
1896年 リトグラフ。
ムンク、5歳で母を亡くし、自身も14歳で死の淵を彷徨う。自身は回復したが、姉を結核で失う。死の影はずっとついて回った。
赤と青、この二色が重なりあうとこのような色調となる。儚げで明日がないような色調に。でも、美しい。
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≪太陽≫。
1910ーⅠ3年 油彩、カンヴァス。
1863年生まれのムンク、1908年に国家から勲章を授与されノルウェーの国民的画家となっていく。作品も幅広い。
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≪星月夜≫。
1922-24年 油彩、カンヴァス。
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≪生命のダンス≫。
1925年 油彩、カンヴァス。
「生命」ではあるんだが、「愛」ではあるんだが、「不安」を含んでいるやに思える。
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≪二人、孤独な人たち≫。
1933-35年 油彩、カンヴァス。
ムンク、70歳の頃の作。生涯結婚しなかったムンク、「孤独」ということは常に頭にあったであろう。「不安な愛」、「愛の不安」を反芻しながら。
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ところで、ムンクと言えば自画像である。80歳でこの世を去るまで多くの自画像を描いている。
上は、1882年、19歳の時の≪自画像≫。
油彩、紙(厚紙に貼付)。
19歳のムンク、レンブラント顔負けの自画像を描いている。
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≪地獄の自画像≫。
1903年 油彩、カンヴァス。
ムンクは、80歳でこの世を去るまで生涯独身であった。が、女性とのあれこれはさまざまあった。
この作品は、女性関係とアルコール依存症に苦しんでいた40歳の時の自画像。
赤と黒い背景の前に裸で立つムンクである。
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≪皿にのった鱈の頭と自画像≫。
1940-42年 油彩、カンヴァス。
鱈の頭、死の象徴だそうだ。それを食べてしまうということらしい。「不安」に「しゃれ」で立ち向かおうかということか。
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≪自画像、時計とベッドの間≫。
1940-43年 油彩、カンヴァス。
1944年に80歳で死ぬムンクの最後の自画像である。
「不安、死、愛、それらを包括した生命」を越える安らかなものを感じる。


音声ガイドは、福山潤とテレ朝アナの宇賀なつみであった。
時折り入るBGMがよかった。
シベリウスのピアノ曲やグリーグの「ペールギュント」などが。「ソルヴェーグの歌」など久しぶりに聴いた。


この間、幾つかの動きがあった。
トランプ、二度目の米朝首脳会談を今月末、ハノイで行うと表明した。
国内で手詰まりのトランプ、何とか金正恩とのパフォーマンスに賭けたいようだ。


私が贔屓の小平奈緒の、スピードスケート500メートルの連勝が37で止まった。
ドイツでの世界距離別選手権、3年近く負けなしであった小平奈緒、敗れた。「またフレッシュな気分で挑戦していきたい」、と小平は語っている。これからは気軽に滑ってもらいたいな。


一昨日、堺屋太一が死んだ。
半世紀前の大阪万博を若い通産官僚として仕切り、半世紀後の大阪万博を後押ししていた。
気骨ある大阪人であった。

流山子雑録     『酔睡胡乱』

ムンク展


ムンクという絵描きは食わず嫌いであった。
あの≪叫び≫、ゴッホの≪ひまわり≫をも凌ぐ知名度に加え、晩年の何やら旧ソ連の社会主義リアリズムを思わせる作風に、面白くないなと思っていた。
北欧へは行ったことがない。ノルウェー・オスロのムンク美術館へも。が、行けばムンク展、面白かった。
エドヴァルド・ムンクの自己解析なんだ。

流山子雑録  『酔睡胡乱』


伊藤譲との別れ。


1月末、「はてな」によるこのブログの名称やシステム、仕組み、デザイン、その他もろもろのことが変わったので、戸惑っている。説明に従い、自分で対処してくれということだが、来月、78歳になる年寄りにはおいそれとは対応できない。
「はてなダイアリー」での9年7か月、2554回に及ぶ記述がこちらに移行ができればいいのだが、何度か試みるも上手くいかない。
が、すべて手さぐりであるが、文言を打つのと写真を取りこむのはできそうだ。大相撲初場所の千秋楽から1週間となる。その間、古い仲間である伊藤譲の通夜と告別式があった。
伊藤譲との別れ、記録しておきたい。


通夜の式場には伊藤の作品が展示されていた。
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このように。
今月開催の学生時代の仲間とのグループ展への出品作も含め。
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伊藤譲が極めていたデジタルアートである。
タイトルは≪無題≫。2005年の作。
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タイトルは、≪チャーリー≫。鉛筆画。
伊藤はこの犬を可愛がっていた。3年前に急死したのだが私のところも犬を飼っていたので、それ以前には伊藤からチャーリーの写真を送ってきていた。私もウチの犬の写真を返していた。
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≪旅出ちの河≫。2010年、デジタルアート。
10年以上行かなくなったが、インドへ何度か行っている。あの世への旅立ちの地・バラナシ(ベナラス)へも。その地のガンガー(ガンジス河)を思わせる。
しかし、この作品の岸辺に立つのは、どうも若い男と女。補陀落渡海や波羅密多の世界とは異なる。伊藤譲、ロマンティックなんだ。
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2年少し前であっただろうか、伊藤に待望の孫が生まれた。同時に2人も。ツイン、双子。伊藤、喜んでいた。
この作品のタイトルは、≪A Peaceful Day≫。2018年。伊藤譲の遺作、アクリル画。
ツイン・ボーイズがいる。そのお母さんがいる。そして、チャーリーがいる。まさに伊藤のピースフル・デイであることが描かれている。
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仲間の山宣がその写真を撮っているとその後ろの扉が開き、式場の模様が現れた。
翌日の葬儀、告別式でのこと、葬儀社の人が出棺の準備をしている間に、伊藤の写真がモニターに流れた。
その何枚か。
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学生時代の仲間との飲み会。
伊藤、何年か前から飲み食いができなくなり、栄養補給は胃瘻で行っていたが、仲間内の飲み会にはよく出ていた。
これはいつ頃のことであろうか。2年少し前に死んだ板谷が写っているので、3年ほど前のことであろうか。飲み食いはできないが、その場にいた伊藤、楽しそうであった。ここに写っている連中、みな学生時代のサークル仲間である。だんだん皆さん、後期高齢者となっている。で、2、3年にひとりずつこの世に別れを告げている。そういう年代である。
伊藤譲の急死、昨年末、12月にも普段通り会っていたので、みんな驚いた。その通夜には、学生時代のサークル仲間が13人参列した。その前後、ネットのメールでは、伊藤の思い出を多くの人が記していた。
そのひとつをコピペしよう。
伊藤と同学年、美術評論家である早見堯のメールの一部。
<一番の想いでは、一年生の秋、早慶戦の後、飲み会をやって、伊藤くんも含めた何人かが、西落合のわたしの下宿、四畳部屋に集まってまた騒いで泊まりました。
朝、下宿のおばさんが共同トイレにゲロはいて掃除もしないでとかと怒鳴り込んできたら、伊藤がものすごい反抗的な態度で応答したので、下宿にいづらくなり、同級生で後にベラスケスとスペイン美術研究第一人者になった大高保二郎くん(最初、美研でした)に手伝ってもらって引っ越ししたのでした。> 
ハハ・・・。
伊藤、喧嘩早かったんだ。そういう伊藤、カッコよかった。が、後年の早見堯の下宿のおばさんには、ごめんなさいねだな、やはり。
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10年近く前になるかもしれないが、奥多摩のこのようなところへも行った。
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<いつまでも色あせぬ面影を胸に・・・「ありがとう」>。
この言葉、伊藤譲の言葉でもある。が、それと共に、伊藤譲夫人である恵美子さんの言葉でもある。
「御会葬御礼」に記された恵美子夫人のそれに続く言葉、通常の会葬御礼の文言とは異なる体温を感じる言葉。とても自然であり、温かいものであった。