ハントとラウダ。

ライバル物語は面白い。それも、お互いが相容れない二人であればあるほど。
相撲の世界で言えば、栃若、栃錦と初代若乃花よりは、現理事長・北の湖と相撲界を離れざるを得なかった輪島の二人。
角界を離れた後、国技館へ足を踏み入れることがなかった輪島へ、北の湖は本場所のチケットを送り続けた、という。栃若のように、二人で酒を酌み交わすことなどはない。相容れない立場にある北の湖と輪島、それでいてお互いの頭からは離れない。
F1の世界でのジェームス・ハントとニキ・ラウダの関係がそうである。
殊に、1976年のF1グランプリ。

『ラッシュ/プライドと友情』、脚本:ピーター・モーガン、監督:ロン・ハワード。
”お前がいたから、強くなれた”、まさにその通り。
ジェームス・ハントとニキ・ラウダ、F1以前、F3の頃からのライバルである。

天才肌のジェームス・ハント、自由奔放、遊び好き。その日常は酒と女。極めつきのプレイボーイ。

コンピューターとも称されるニキ・ラウダ、ストイックで理智的、家庭第一という男。

1976年のF1GP(グランプリ)、前年のチャンピオン、ニキ・ラウダが9戦して5勝、トップをひた走る。
が、8月のニュルブルリンクでのドイツGP、激しい天候の中で行なわれた。ニキ・ラウダは中止を求めたが、ジェームス・ハントは実施を主張した。ラウダに対し、「怖気づいたか」、という言葉を発して。
レースは始まった。
が、ニキ・ラウダがクラッシュした。400度に達する炎に包まれた。ラウダ、瀕死の重傷を負った。しかし、6週間、わずか42日後、イタリアGPにニキ・ラウダは姿を現す。
そのレース前の記者会見の時、一人の記者がニキ・ラウダに対し礼を失した質問をする。この野郎め、というものだ。ニキ・ラウダも反応する。「ファック・ユー」、と。
しかし、ジェームス・ハントの反応は、それどころではない。
その記者をトイレに引きこみ、ボコボコに殴っている。一緒に酒を飲むことなどはないが、これぞ友情、と言えよう。

ニキ・ラウダがいない間に、ジェームス・ハントは、F1GPのポイントを積み重ねていく。が、、ニキ・ラウダ、復帰のイタリアGPで4位に入る。
1976年のF1GPの最終戦は日本で行なわれた。富士スピードウェーで。
ここまでの獲得ポイント、ニキ・ラウダが68ポイント、ジェームス・ハントは65ポイント、その差はわずか3ポイントである。
富士スピードウェーでのレース、激しい雨となった。しかし、決行された。さまざまなしがらみがあったことであろう。
ニキ・ラウダ、途中棄権した。レースのできる状況じゃない、と。
ジェームス・ハントは3位となりポイントを稼ぐ。、この年のチャンピオンとなった。

エキゾーストのノイズが聴こえてきそう。


バラク・オバマを迎えての宮中晩餐会、金大中以来の規模で行なわれた。
野茂英雄が招待されている。無愛想な野茂英雄、如何なる顔で出席したかは知らないが、何となく嬉しい。


明日から留守にします。ブログも暫らく休みます。