大関の美学。

『徒然草』は、日本を代表する随筆、思索書のひとつだと言われているが、”フムフム、ソウソウ”、という気易い書でもある。
さすが深いな、というところもあるが、なんだ当たり前じゃないか、というところもある。
何しろ、”世の役に立つようなことなど何もすることがないので、一日中机の前で、心に浮かぶ碌でもないことを、とりとめもなく書きつけ・・・・・”、と兼好法師ご自身が言っているのだから。グレードは、まったく異なるが、この雑録ブログと同じようなものだ。その背景だけに限れば。私は、夜、酒を飲みながら、碌でもないことを書いているのだが。
心に浮かんだことを、とりとめもなく書きつけているので、あちこち矛盾する記述も出てくる。「アレッ、この間はこんなことを言っていたのに、ここではこんなことを言っている」、といったようなことが。いや、私のことではない。私の場合は、そんなことは四六時中だろう、たぶん。兼好法師のことである。
在俗よりは遁世、花の盛りよりは散って侘びしげになった様、華やかな表よりは裏の面影、当然のことながら、まあ、そのようなことが多い。しかし、時には、こういうことも言っている。
双六の話。双六で勝つには、勝とうと思って打ってはならない。負けまいと思って打たなければならない、と。身を治め国を引っぱっていくのも、同じようなものだ、とも。やけにアグレッシブなことを書いている。
と、別の日には、こういうことも言っている。
年をとってもしがみついている人の話。年寄りがすることを、周りの者が笑うわけにはいかない。でも、大勢のなかでは、どこか見苦しい。大体、すべての仕事はやめて、のんびりしているのが、見た目もよく好ましい。・・・・・年をとったら、まだはっきりしないうちにやめるのがよい、と。
ところで、どうして今日、兼好法師の言葉なんか思い出したのか、と言うと、魁皇が5勝5敗となったからだ。琴欧州にまったく歯が立たず、今日で5敗となってしまった。おそらく、今場所で魁皇の見納めとなるからだ。
魁皇への声援は凄い。白鵬に勝るとも劣らない。懸賞金も連日つく。今、白鵬以外で懸賞が連日つくのは、高見盛と魁皇だけだろう。魁皇、大関となって10年になる。その体形から言って、横綱土俵入りが似合うだろうな、と思っていた。しかし、13回目のカド番となった今場所、ついにその時となった。
初めの頃は、カド番後の場所は、二桁の勝ち星を挙げていた。しかし、ここ3年ほどは、二桁の勝ち星には遠い。8勝か9勝。で、大関の地位を保ってきた。平幕ならばいい。でも、大関。横綱に次ぐ地位だ。横綱ならば許されない。栃錦など、14勝1敗を続けた翌場所、初日から2連敗したら、スパッと引退した。栃錦自身の美学でもあり、綱の美学でもあったろう。
大関の美学もあって然るべし、私はずっとそう思っていた。しかし、ここ何年も、魁皇に関してだけは、それを求めることは、ご法度となった。アンタッチャブルとなった。ファンばかりでなく、相撲協会も、親方衆も、解説者も、すべての人が。「いやー、満身創痍で立派です」、という言葉ばかり。
相撲協会の関係者ならば、それもいい。しかし、北の富士も舞の海も、今や、心に思っていることを口にしない。今、相撲解説者としては、合格点の解説者ではあるが、この点二人共、だらしないと言えば、だらしない。
大相撲の世界は、何でもありの世界である。単なるスポーツとは異なる面もある。その中には、目に見える美、見えない美、行動、思考の美学も含まれる。
だから、今日の魁皇を見て、つい兼好法師の言葉を思い出してしまった。
魁皇は、私が好きな力士であった。横綱にしたかった。だから、こんなことを書くのは、気が重い。ご法度であることは、解かっている。だがやはり、一度は記すべきかな、と思った。世の相撲好きからは嫌われても。
あと何日か、魁皇の姿を静かに見る方がよかったかな、とも思うが。