主従二人(酒田)、弾み。

晴れ。
『おくのほそ道』の象潟の条には、昨日のブログで触れた「雨に西施が」の句と「鶴はぎぬれて」の二つの句の後に、「祭礼」と記し、二人の句を、芭蕉は書き加えている。
一人は曾良であり、もう一人は低耳とある。その低耳という名の右肩には、小さく”みのの国の商人”と記されている。おそらく、あまり聞き慣れない名前なので、低耳とはこういう人ですよ、ということを読者(今の読者ではなく、江戸期、当時の読者)に説明するための加筆だろう。
実は、この字句を見て私は、「ン、ムム」、と思った。低耳の名ではない。そんな名など私が知るわけがないので、それはいい。私の「ン、ムム」は、”みのの国の商人”という言葉を見たからである。そして、しまった、昨日弾みで書いちゃったな、と思った。
このブログ・『酔睡胡乱』を手探りで始めた頃、私は、「エンピツやペンで書くのと違って、ブログというのはキーを打つだけだから、あまり考えずに進んじゃうな。思いつくまま気のむくまま、勝手に進んでいっちゃうな」というようなことを記したことがある。あまり深く考えずに、思いつくまま書いちゃう、というかキーを打っちゃうので、つい、弾みというか、勢みで、余計なことまで打っちゃうことがある。昨日がそうだ。
3日間にわたる芭蕉と曾良との三吟歌仙を巻いた不玉(伊東玄順)について、つい、「出羽酒田の(田舎といえば田舎だと思うが)の医者・不玉は、・・・」と書いた。おそらく、財も人望もある医者・不玉、ということは、「正しいタニマチ」という字句に込めたつもりだが、大都会・江戸の大宗匠に比し、酒田の田舎医者の、という気が何処かにあったんだ、私の心の何処かに。だから、弾みでこう打っちゃたんだ。このカッコ内の(田舎といえば・・・)の記述は、必要ないことだ。いや、必要がない、というよりも、間違いである。酒田の町、酒田の人に申し訳ない。
先ほど、今日のこのブログを打ち始めた後、”みのの国の商人”の字句を見て、「ン、ムム」と思い、そのあと、しばらく考えた。昨日は思わないことで、今日思い出すこともあった。
江戸期、美濃の国の商人が出羽の国まで商用で来ているということは、彼自身ある程度の商いをしている商人だと思われるが、その出張先の酒田も、経済活動の盛んな所であることは言うまでもない。それで、思い出したんだ。
ひと月近く前のこのブログに、学生時代の連中とのクラス会を山形でやった時、最上川の川下りもやり、酒田近辺で船を降りた、と記したことを。その後、酒田市内を観光し、豪壮な本間家の屋敷も見たことも思い出した。
「本間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」の本間家だ。戦後の農地解放が行われる前までは、日本で一番の大地主であった本間家だ。江戸期、大坂堂島の米相場で巨額の財を成し、米どころ・庄内の土地を次々に手に入れ大地主となり、さまざまな事業を行い、住友家や三井家と並ぶ大商人となり、庄内藩や米沢藩の財政をも支えた本間家だ。いわば、江戸期のコングロマリットだ、本間家は。酒田は、その本拠地だ。
米本位制経済の時代、経済の中心地・大坂へ米を満載した北前船がひっきりなしに出入りした酒田だ。西の堺、東の酒田、と称された酒田だ。その酒田を、「田舎といえば田舎だと思うが」、と弾みで打っちゃたことを、悔み、反省する。気軽なブログとはいえ、少しは考えて打たねばならないな、と思う。
あとひとつ、クラス会の折、「土門拳記念館」にも行った。日本で最初の写真美術館だ。
酒田は、あの土門拳の生まれた所でもあるんだ。重厚、剛直なリアリズム、写真の鬼、の土門拳だ。「古寺巡礼」、「筑豊のこどもたち」、「顔貌」シリーズなど、土門の、彩度の明確なというか、白黒の狭間を抉りだすというか、彼の代表作が多く展示されていた。
文化都市でもある酒田の名誉のためにも、付け加えておく。
昨日の「弾み」のエクスキューズ、の意味も少しはあるが。酒田の町への、酒田の人々への。
ずいぶん前書きが長くなったが、『おくのほそ道』に戻ると、「祭礼」と記し、芭蕉が書き留めているふたつの句は、
     象潟や料理何くふ神祭     曾良
     蜑の家や戸板を敷て夕涼    低耳
である。
この低耳の右肩に芭蕉が小さく書き加えた”みのの国の商人”の字句から、いろいろ考えることになってしまったんだ。
それはともかく、この低耳なる男、芭蕉とは以前からの顔見しりだったようだが、曾良の『旅日記』の6月17日(新暦8月2日)には、<弥三良低耳、十六日ニ跡ヨリ迫来テ、所々ヘ随身ス>、とあり、6月25日(新8月10日)、芭蕉主従二人が酒田を発つ時にも何人もの人たちと共に、見送っている。
二人の句は、象潟で丁度いきあった熊野権現の祭りの様子を詠んだものだが、曾良の句は、モロそのまま、低耳の句も、象潟の漁村ではみなが戸板を敷いて夕涼みをしているな、という、これもモロそのままと言ってもいい句、だと私は思う。さほどの句だとは、私には思えない。
では、どうして芭蕉はわざわざこの句を、練りに練った彼の代表作・『おくのほそ道』に入れたのか。山本健吉はこう書いている。
<低耳は、貞享五年(1688年)芭蕉が長良川の鵜飼を見た時からのつき合いであるらしい。たまたま商用のついでに象潟に行った時芭蕉にめぐり会い、細道に一句を採用された。一期一会の縁である>と。
なるほど、低耳は、幸せな男だな。320年後の私でもその名を知るんだから。そして、100年後、200年後の人たちにも、おそらく、知られる名になるだろうから。
今日は、越後路まで追っかけるつもりだったのだが、昨日、弾みで書いたことに気がつき、「ン、ムム」となり、追っかけはほとんど進まなかった。しかし、さまざま考えた日ではあった。
主従二人の追っかけは、明日以降としよう。