主従二人(象潟、酒田)。

晴れ、薄曇り。
時には、衣類を借りて、びしょ濡れになった着物を乾し乾かさねばならないほどの激しい雨の中を歩んだ、主従二人の、酒田から象潟への4日間の往還、ホントに良かった。
これが、ピーカン、カンカン照りの4日間だったなら、あの、なんとも言えぬ趣きのある句、
     象潟や雨に西施がねぶの花
は、おそらく生まれなかっただろうから。雨にけぶる象潟だからこそ、詠めた句だ、と思う。
俳句は、俳諧の時代においても、別に目にした自然現象をそのまま詠まなくても、想像をめぐらせたものでも、また、非自然、超自然を詠みこんでも良かったはず。
しかし、秘めたる情、かそけき趣き、ということを考えると、”雨”というものは、重要な要素だ、と私は思う。それが、そぼ降る小雨であろうと、篠突く雨であろうと。江戸期であろうと、今の時代であろうと。それだからこそ、芭蕉主従の象潟の雨は、もってこいの天の塩梅だ、と思うな。まあ、歩くには苦労しただろうが。
なお、象潟で芭蕉は、
     汐越や鶴はぎぬれて海涼し
の句も詠み、また、『おくのほそ道』には収録されていないが、曾良の『俳諧書留』には、<夕に雨止て、船にて潟を廻ル>との記述の後、
     夕晴や桜に涼む浪の花     翁
という句も記載されている。しかし、「雨に西施が」の句への思いが強い私には、詠んだ芭蕉や逐一書き留めた曾良には悪いが、なるほど、そうですか、と思うのみ。
6月18日(新歴8月3日)の夕方、酒田で世話になっている淵庵不玉(本名は、伊東玄順という医者)の屋敷に戻ってくる。
翌19日から21日までの3日間は、玄順の屋敷で、芭蕉、曾良、不玉(玄順)による三吟歌仙を巻いている。3日間共快晴だったようだが、どうも外へは出ず、句のみ作っていたようだ。曾良の『旅日記』の記載も簡潔というか、簡単。
○十九日 快晴。三吟始。
○廿日 快晴。
○廿一日 快晴。夕方曇。夜ニ入、村雨シテ止。三吟終。
この時の三吟歌仙、<出羽酒田伊東玄順亭にて>と『俳諧書留』に曾良が記す、36句の中から各人1句、初めの句のみ留めよう。
     温海山や吹浦かけて夕涼     翁
     みるかる磯にたたむ帆莚    不玉
     月出ば関やをからん酒持て   曾良
江戸の大宗匠・芭蕉や、その大宗匠から云わず語らず日々薫陶を受けている曾良と、3日間、対等で立ち合っている出羽酒田(田舎といえば田舎だと思うが)の医者・不玉(伊東玄順)は、相当な力量の作り手ではあったろう。それと共に、不玉にとっては、生涯忘れ得ぬ至幸の3日間だったことだろう、と思う。
この後も、24日まで、都合10日近くも芭蕉主従二人に宿を貸し、世話を焼いている伊東玄順も、正しいタニマチの一人だな。
どうも、今日のブログは、単なる追っかけだな。我ながら、そう思う。しかし、碌な俳諧知識もないんだから、それでいい、としよう。二人の追っかけで。
続きは、また。