「住み果つる慣らひ」考(20)。

伊香保での老いた竹久夢二(と言っても竹久夢二、まだ40代であるが)の描写から、川端康成の『末期の眼』は始まる。
<梶井基次郎氏が死んでから既に三年、明後日は古賀春江氏の四七日(よなぬか)であるが、私は二人についてまだ書けない。・・・・・ 。・・・・・、死についてつくづく考へめぐらせば、結局病死が最もよいといふところに落ちつくであらうと想像される。いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない>。また、<・・・・・、芥川氏の「末期の眼」が最もよく感じられて、・・・・・。その「末期の眼」を芥川氏に與へたところのものは、・・・・・>。さらに、<・・・・・、「末期の眼」は、やはり「実験」であらうが、死の予感と相通ずることが多い>。
川端康成の『末期の眼』、私如き頭には何やら分かり難い。
この「末期の眼」なる言葉自体、芥川龍之介の絶筆からのもの(川端康成はそれをちゃんと断っているので、パクリではないが)であるので、余計にそう思う。
で、芥川龍之介の『或旧友へ送る手記』を青空文庫で読む。
1927年(昭和2年)7月の遺稿。
とても分かりやすい。
<が、少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か、僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である>。
<僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持ってゐる>。
<それから僕の考へたのは、僕の自殺する場所である>。
<最後に、僕の工夫したのは、家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである>。
そして・・・
<唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふあらう。けれども、自然の美しいのは僕の末期の眼に映るからである>。
マルシー芥川龍之介の「末期の眼」、このように現れる。
それはそれとし、芥川龍之介の『或旧友へ送る手記』、川端康成の『末期の眼』と異なりとても分かりやすい。
今年初めに自死した西部邁著の『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社 2017年刊)には、西部邁の「末期の眼」で眺めた西部邁自身が描かれる。芥川龍之介の「末期の眼」に通底する。
少し長くなるが同書から引く。
<「五十にして天明を知る」とは、彼の場合、・・・・・であり、「六十にして耳従う」とは・・・・・であり、「七十にして(欲することを為しながら)矩を越えず」とは、死に方にはいろいろあろうが、ともかく縦容として死ぬための準備を完了させることだ、と彼は考えた>。
<この男が55歳という比較的に早い時期に『死生論』を書いてしまったのはなぜか。・・・・・ ・・・・・で、この男、「覚悟」を決めようと思った>。
・・・・・
・・・・・
<で、彼はシンプル・デス(簡便死)を選びとる、と55歳で公言した。要するに、じきに死ぬと察しられたら、実行力の残っているうちに、あっさりと自裁するということである>、と西部邁は記す。
全うしたな、西部邁。


昨日今日、中国東北部の大連の町はピリピリしていたらしい。
今日、その理由が分かった。金正恩と習近平の話し合いが持たれたそうだ。
金正恩、ドナルド・トランプとの話し合いに臨む最後の詰め。習近平との意見交換と言うよりは、これこれならば、という腹づもり。どこまでの後押しならば、どこまでの対応を、といったこと。さまざま話し合ったことだろう。
金正恩にとっては、間もなくの米朝首脳会談、生きるか死ぬかの大一番であるのだから。