「住み果つる慣らひ」考(11)。
近代日本を代表する哲学者のひとりである田辺元は、昭和20年3月京大教授を退官した後、終戦間際に軽井沢に隠遁する。
<「メメント モリ」は田辺の晩年の「死」をめぐる思想を簡潔に表現した文章であり、・・・・・、「「死の哲学」の梗概ともいうべきもの」と自ら言い表わしている>(藤田正勝編『死の哲学 田辺元哲学選Ⅳ』岩波文庫 2010年刊)。
『死の哲学』は、昭和32年(1957)から翌年にかけて記されたいくつかの論文で構成されているが、「メメント モリ」は昭和33年に書かれたものである。
しかし、なぜ田辺元は軽井沢に文字通り隠遁していたのか。まさに隠棲、隠遁なんだ。
田辺元、昭和15年(1940)『歴史的現実』を記す。
その中で田辺元、「生きることは死ぬことだ」ということをいっているそうだ。簡単に言えば、「国のために死ね」ということ。私はもちろん読んではいないが、そういうことらしい。だから、終戦間際、隠遁生活に入ったようだ。
昨年、佐藤優が『学生を戦地に送るには 田辺元「悪魔の京大講義」を読む』という書を新潮社から上梓している。佐藤優は、現代の怪人にして哲人に近づきある人物だと私は勝手に思っている男である。
少しややこしくなるが、昨日の山折哲雄が新潮社のPR誌(でもあろう)「波」の昨年8月号にその書についてのレビューを記している。”「田辺元の思想的転回と「懺悔道」”、と。
<戦争協力に手をかし、やがて反省、懺悔の生活に転じた2人の知識人に、私はこれまで関心を抱いてきた。詩人の高村光太郎と哲学者の田辺元だ>、と山折哲雄。
佐藤優は田辺元を糾弾し、山折哲雄は田辺元の思想転回を追っている。
前ぶれが長くなったが、田辺元の「メメント モリ」である。
『死の哲学』の梗概とも言うべきもの、と田辺元が言う「メメント モリ」である。
こう書きだされ、このようなことが記されている。
<西洋には古くからメメント モリMemento mori(死を忘れるな)というラテン語の句がある。ふつうには、・・・・・、しかしその深き意味は、・・・・・、「われらにおのが日をかぞえることを教えて、智慧の心を得さしめたまえ」とあるのに由来するものと思われる>、」と。
<・・・・・。すなわち正に、「死を忘れるな」という戒告にはんして死を忘れる結果なのである。いまや改めて、メメント モリの戒告に従い、それを実行しなければならぬ時機に追詰めれられて居るわけである>。
<死復活の自覚は生死交徹して両者の切結ぶ点に発生するのである>。
<「死の哲学」は「生の哲学」の行詰まりにそれより遅れて現れる。菩薩は作仏行を通らずして無為に衆生済度から始めることはできない。自利利他といわれるゆえんであろう>。
正直言ってよくは理解できないのであるが、これが田辺元の「メメント モリ」。
それはそうとし、私たち世代の「メメント・モリ」と言えばこれである。
藤原新也の『メメント・モリ』である。
30年以上前の『メメント・モリ』を引っぱりだした。奥付を見ると、発行元は情報センター出版局 昭和58年刊である。
同書の中、「乳海(ちちのうみ)」というタイトルの中から忘れられないページを複写する。
インド、ガンガー(ガンジス河)河畔の聖地・バラナシでの「メメント・モリ」。
藤原新也の写真に加わるに、松岡正剛が『千夜千冊』の中で<ゲンゴロウのようなモノローグ表現>と記した藤原新也の文言、「ああ」という言葉を発するのみ。
インドには何度も行き、バラナシにも2度行った。
私も、このような場に身を置いた。
今、もう行くことはできないだろうな、と思うことがとてもつらい。
何とトランプ、3月末にCIA長官で次期国務長官となるポンペオを平壌に派遣、金正恩と協議をしたそうだ。ポンペオ、強硬派中の強硬派である。
トランプの意を汲んだポンペオ、金正恩に「イエス オア ノー」を迫ったのではないか。
動いているな、世界は。