「住み果つる慣らひ」考(10)。

いつであったか今年の初めの頃、昨年の日本の自殺者は2万幾らとかということを聴いた。日本の自殺者数は3万人を超えていると思っていたので、少し驚いた。
今、厚労省発表の数値を調べてみたら、昨年2017年の日本の自殺者数は21140人とある。このところ8年連続で減少しているそうだ。そうなのか。
山折哲雄の『往生の極意』は2011年に発行されているが、太田出版の季刊誌「atプラス」に掲載されたのは2009年から2010年。まだ日本の自殺者が3万人を超えているころ。初出連載の主たるタイトルは「現代の往生試論」。
で、山折哲雄、『往生の極意』の初めの方に、自殺者3万人時代を念頭に、エネルギー・環境・食糧などが地球の喫緊の問題だとし、人類の未来はどうなるのか、と記す。
<人を食うか、我を食うか>。食料の問題だ。人を食うはカニバリズムの原初的形態もあるが、その延長線上に動物を食べる、我を食うは一種の精進といえ、断食ともいえる、と。
<その後者の線の果てにもしかすると宗教が生まれてきてのかもしれません>、と山折哲雄は記す。
この書、サブカル得意の太田出版の編集者に対し山折哲雄が語ったものである。「往生」について。だから、解かりやすい。
「断食往生」、「焼身往生」、「土中入定(往生)」、「投身往生」、「切腹」、「入水」、「自然法爾」、さらに、「念仏往生」、「隠れ往生」、「惚け往生」、また、それぞれに、西行、藤井日達、一休、蓮如、一遍、良寛、法然、親鸞、その他の宗教者について学ばせてくれる。
巻末、「デクノボー往生」として宮沢賢治のこと、「犠牲者」の存在が語られる。
「デクノボー」、「雨ニモマケズ」の
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
   ミンナニデクノボートヨバレ
の「デクノボー」である。
<デクノボーの姿を自利と利他を超えた境地だと考えるのは、あまりに美しすぎる解釈であって、究極的に言って、賢治の死にたいという心の動きも自利だったような気がします。・・・・・。・・・・・。そこには自利の観念がまつわりついているのではないかという認識です。親鸞の言葉でいえば「はからい」が働いているということになるでしょう>、と山折哲雄。
書中、面白いところが幾つもある。
西行の最後についてもそう。
西行は、例の歌、<「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」の歌の通りに死んだ。見事な往生をとげたと評価されています。慈円、俊成、定家など、有名どころが褒め称える言葉を書き残している。しかし、西行の往生を断食往生、宗教的自殺であるという視点からみる人はいません>、と山折哲雄。
西行、文治6年(1190年)旧暦2月16日、望月の日に、断食往生、自死した、と山折哲雄は語る。昔の宗教者は、自らの死をコントロールすることができたんだ。
「仏教者の戦争責任」を考えていた臨済宗妙心寺派の僧侶・市川白弦という人も初めて知った。自らも含め、日本敗戦後ほおかぶりをしている日本の仏教界の戦争責任を追及していたそうだ。
『遠野物語』の「ダンノハナ」のことも出てくる。「神隠し」の話。遠野の地、たしかにそのような地である。
すぐそこに「生」と「死」があるような。


安倍晋三、トランプと会うためアメリカへ発った。
「信なくば立たず・・・」なんて、モリ、カケ、自衛隊、さらに加えて財務省のもろもろのことについて語っている。
麻生太郎はガラが悪いが正直だ。今日も、お前そんなこと言っていいのか、なんてことを喋っている。
それに引き比べ、安倍晋三の言葉のしらじらしいこと。共にお坊っちゃんなんだが。


それとは対照的にこの男はまるっきり対極、地を這っている。
川内優輝、ボストンマラソンで優勝した。瀬古利彦以来31年ぶりの日本人王者。
気温は低く、風もあり、雨も降るという厳しい状況であったようだ。その中、川内優輝はアンビリーバボーな走りを見せつけたそうだ。
若い頃からマラソン界のセレブであり、叩き上げの川内優輝には厳しく接していた瀬古利彦も「よくやった」の声をかけている。
その川内優輝、正業は埼玉県の定時制高校の事務員をしているということで、アメリカではまたも「アンビリーバボー」。
愉快、愉快。