「住み果つる慣らひ」考(2)。

久しぶりに山田風太郎の『あと千回の晩飯』を読んでいたら、また全部読んでしまった。
ジジババ年寄りの話だとか、病気の話だとか、メシの話だとか、生き死にの話だとか、といったようなまあ、あまり、どちらかと言えば明るくないことごとを記しているのであるが、これが面白い。不思議なことに元気が出てくるような気になってくる。
<それにしても、私自身は人生六十五歳定年説、正しくは生存許容説を提唱しながら、それから十年近くたって、まだ生存しているのはどういうわけだ>、と記しながら、入院中の食事に食欲がわかなくなる。これは当然のことである。
山田風太郎、昼ごろ朝飯を、夕方から晩飯を、と一日に2回メシを食うのだが、毎日毎日ご馳走を食っているのだからむべなるかなである。さらに晩飯にはウィスキーボトル1/3を飲みながらである。
<そこでお医者さんに、私の食欲不振について相談した>、と風太郎先生。食欲増進剤として少しアルコールを摂取しても、と。医者からは、一蹴される。アルコールを飲まなければ食欲が出ないのは、それが禁断症状です、と。
<とにかく国民の平均寿命が八十歳、国民の四分の一が六十五歳以上なんて世の中が、まちがいなく到来する。どこを見わたしてもボケ老人ばかりになる>、とも。
山田風太郎が朝日新聞朝刊に週一で「あと千回の晩飯」を書いたのは、平成6年10月から平成8年10月まで。途中病気入院などで半年ばかりのお休みがある。
上の「国民の平均寿命が・・・」は、連載が始まってすぐのころ。平成6年の秋のころである。今から23年半ばかり前。
総務省による最新の統計では、昨年、2017年の日本人の平均寿命は、女性87.14歳、男性80.98歳である。国民の平均寿命は、おそらく85歳に近いのでは。65歳以上の高齢者の比率も27.7%。23年少し前、風太郎先生が記した値を軽く超えてしまった。
風太郎先生の予見、ご託宣では、ボケ老人ばかりになるフェーズに突入している。
どうするか。年寄りは死ななきゃならないだろう。
風太郎先生はその解決策も記している。集団でトワの眠りについてもらう方策を。
志願でと言うんだが、まあめちゃくちゃ、荒唐無稽な策。
それはともかく、この超長寿社会で、どう死んでいくかは考えなければならない。
生涯現役、昨年105歳で死んだ聖路加病院の日野原重明はこう記している。
<私たちの死に方というのは、単なる死に方でなしに、生きる姿勢です。・・・・・そう考えますと私たちはやはり、現在与えられている今日という日をどう生きるかを考えなくてはなりません。・・・・・あるのは今日です>(日野原重明著『老いと死の受容』 春秋社 1987年刊)、と。
日野原重明先生のように100歳超までは叶わなかったが、90歳までは現役医師であったモタさん・斎藤茂太もこう語る。
<自分の死を考えることは、そのまま自分の生の大切さを考えることになる>(斎藤茂太『老いへの「ケジメ」』新潮社 2015年刊)、と。そして、こう記す。
<人生は、長い滑り台と思うと楽になる>、と。<「自分なりに楽しく滑っていけばいい」ということになる。がんばってウンウンと滑ろうとしなくても、みんな終点は同じなのである>、と続く。
死ぬということは、自分なりに滑っていく、つまり生きていけばってことと同じなんだ、ということらしい。
じゃあ、生きていくってどういうことなんだ。
若い人たちがダライ・ラマに訊いた。池上彰と一緒に。
以下、『ダライ・ラマ法王に池上彰さんと「生きる意味」について聞いてみよう』 ダライ・ラマ14世・池上彰著 講談社 2010年刊から。
何のために生きているんだろう。生きる意味、人生の目的は何なんだろう、と。
ダライ・ラマはこう答える。
<幸せな人生を実践することが、私たちの生きる目的なのです>、と。「オープン」、「あるがまま」、という言葉も出てくる。
死生ってそういうことなのか、そういうことなのかもしれないな、と思う。


米メジャー、大谷翔平が3ゲーム連続でホームランをかっ飛ばしている。
10勝、二桁本塁打をと思っていたが、それどころではないかもしれない。ひょっとしてベーブ・ルース超えなんてことが目の前に。