エゴン・シーレ 死と乙女。

1907年、18歳のアドルフ・ヒトラーはウィーン美術アカデミーを受験する。しかし、結果は不合格。
アドルフ・ヒトラー、キチンとした美術教育を受けたかったのだが、叶わなかった。美術学校を落ちたヒトラーのその後の歩みは、ご存じのとおり。世界をひっくり返した。数限りない命を奪い。
もしヒトラー、ウィーン美術アカデミーに入学していたらと思うが、それは後の祭りというものであろう。
ところで、ヒトラーが落ちた前年の1906年、ヒトラーよりひとつ年下のエゴン・シーレが、16歳でウィーン美術アカデミーに合格している。
ところがエゴン・シーレ、ヒトラーならば嬉し涙を流したであろうウィーン美術アカデミーのアカデミックな教育方針に反発する。次第に学校へは行かなくなり、妹のゲルティをモデルとした裸体画を描く。そして、世紀末ウィーン美術の総帥とも言うべきグスタフ・クリムトに弟子入りする。クリムトもシーレを可愛がる。
グスタフ・クリムトとくればエゴン・シーレである。今年初め、封切られた。

『エゴン・シーレ 死と乙女』、監督はディーター・ベルナー。
次々と女を作るモテ男、エゴン・シーレには、ノア・サーベトラなる新人。さしあたり、伊勢谷友介と玉木宏を足して2で割ったようなイケメン。こりゃ女は次々に、となるはな。

妹のゲルティであったか。

踊り子のモアであったか。

師のクリムトから紹介されたヴァリであったか。

ヴァリ、エゴン・シーレのミューズとなっていく。
いや、ミューズという言葉では生ぬるい。
ファム・ファタールである。運命の女。

エゴン・シーレとヴァリ。
1918年秋、ヴァリはスペイン風邪で死ぬ。
その3日後、エゴン・シーレもスペイン風邪で死ぬ。享年28歳。

「死と乙女」・・・

シーレ自身とヴァリを描いたものである。

エゴン・シーレ≪死と乙女≫、1995年5月、ベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリーを訪れた折り求めた書から複写する。


アメリカ、ユネスコからの脱退を表明した。来年末で。
先般のパリ協定からの離脱、そして、今日のユネスコからの脱退。アメリカが世界のリーダーからだんだん遠ざかっていく様が見てとれる。
アメリカ、なんて変な男をリーダーに選んだのだ。今さらであるが、バカにもほどがある。


輪島功一のジムからアジアチャンプが誕生したらしい。
WBOアジア・パシフィック、バンタム級の試合、輪島功一のジムの勅使河原弘晶