ミュシャ スラヴ叙事詩。

スラヴ民族といえばヨーロッパの東側の辺境民族、と思われがちである。ラテン系の民族やゲルマン系の民族がヨーロッパの中央、という考え方である。
例えばミュシャの故郷・チェコは、日本では暫らく前まで東ヨーロッパの国、と呼んでいた。しかし、現地の人は、自分たちの国は中央ヨーロッパの国である、と言っている。地理的には、確かにそうである。
そうは言っても、スラヴの国々は長くヨーロッパの辺境の国々と思われてきたのは事実。現実に、スラヴの国々はゲルマンに虐げられてきたのだから、歴史から見て。
スラヴの大国であるロシアでさえ、ラテンやゲルマンの先進国に追いつくことに命を賭けたピョートル大帝の出現を待たねばならなかった。ヨーロッパの辺境国家を脱するため。
ところで、ミュシャである。
チェコのモラヴィア生まれのアルフォンス・ミュシャ、世紀末アール・ヌーヴォーの作家として知られる。

こういうミュシャは、よく知られるミュシャ。
それが・・・

こういうミュシャへ変わっていく。
<たどり着いたのは、故郷への想い>、と。

夏前の乃木坂国立新美術館、草間彌生とミュシャのヘヴィな企画展二つ、一日、或いは半日、館内で過した人も多かろう。

≪スラヴ叙事詩≫、チェコ国外へ出るのは初めてだとのこと。
で、ミュシャの子孫が「チェコの至宝とも言える作品を外国へ出すのはけしからん」、と言っているそうだ。確かに全20点揃って日本へ、どうしてなんだろう。ミュシャの子孫の言うことも解らんじゃない。

アルフォンス・ミュシャ、1860年生まれ。
上の写真は、1928年のミュシャ。

ミュシャの≪スラヴ叙事詩≫、1910年から1928年にかけて描かれている。
≪スラヴ叙事詩≫、全20点であるが、途中何度か公開されたらしい。

1923年のミュシャ。
≪東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン≫を描いている。

≪スラヴ叙事詩≫全20点の内、終わりの方の5点が展示された部屋の撮影が許されている。
多くの人がいる。

20年少し前、プラハへ行った。プラハ城の博物館や美術館へも行った。しかし、≪スラヴ叙事詩≫を見たという憶えはない。
それもそのはず、一般に公開されたのはついこの間、2012年だそうである。それまではモラヴィアの城でかくまわれていた模様。
それが世界初、日本へ来た。
撮影が許されている5点を。

≪イヴァンチツェでの聖書の印刷 神は我らに言葉を与え給うた≫。
1914年作。610cm×810cm。テンペラ、一部油彩。

スラヴの民へ・・・

近づく。

≪聖山アトス オーソドクス教会(正教会)のヴァチカン≫。
1926年作。

聖母マリアと幼子イエス。

スラヴの民。

≪スラヴの菩提樹の下で誓いを立てる若者たち スラヴ民族の目覚め≫。
1926年作。

ハプスブルク家支配からの脱却。

スラヴの民。

≪ロシアの農奴解放の日 自由な労働は国家の基盤である≫。
1914年作。

1861年、アレキサンドル2世、農奴解放令を布告。

スラヴの民。

≪スラヴの歴史の神格化 人類のためのスラヴ民族≫。
1926年作。

≪スラヴ叙事詩≫最後の作品である。
オーストリア=ハンガリー帝国の終焉、スラヴの歴史絵巻の集大成である。



スラヴ民族の若い男が大きく手を広げている。その後ろではキリストが見守っている。チェコの自由と独立を。スラヴ民族の繁栄を。



先ほど、サッカーW杯アジア最終予選Bグループの大一番、対オーストラリア戦が行われた。

日本、2−0で勝った。
W杯ロシア大会へ歩を進めた。

日本、サウジとの対戦を待たず、本戦へ進んだ。

今日のゲーム、浅野拓麿と井手口陽介がゴールを決めた。22歳と21歳の若い選手。
キャプテンの長谷部や長友、吉田といったお馴染みの名前も先発していたが、香川、本田、岡崎といった今までのスター選手はベンチスタート。岡崎のみ後半残り10分を切ったあたりから出てきたが、香川、本田の出番はなし。この世界でも、確実に世代交代が進んでいること見てとれる。

ロシアへの道を決め、水のシャワーをかけられたハリルホジッチ(中央後姿)。
ハリルホジッチ、冷静なキャプテン・長谷部と異なり、今日のゲーム、とても興奮していた。ゲーム中、退場処分を食うのじゃないか、と思われる場面もあった。
まあ、そういう監督も面白い。
ハリル・ジャパン、世代間で戦いつつ進め。