生誕150年 黒田清輝展。
「・・・ 今般天性ノ好ム処ニ基キ断然画学修行ト決心仕候 ・・・」、法律を学ぶためフランスへ留学させていた息子から、いきなりこのような手紙が届く。法律ではなく絵を学ぶことにした、との手紙である。親はビックリしたのではないか。
1886年のこと。差出人は黒田清輝。
しかし、受取人の親父・黒田清綱は子爵であるから、「ああ、よか」、と鷹揚に受けとめていたのかもしれない。9年間もの長い間、仕送りを続けていたのだから。さすが、明治期の華族である。
で、日本近代絵画の巨匠・黒田清輝が誕生した、と言える。
4月中旬の東博正門横。いつものようにチャリンコが停まっている。
右は本館、左は表慶館、特別展は真っすぐ進んだ平成館で。
平成館前の看板。黒田清輝のよく知られた作品。
右は、≪読書≫。
1891年、サロン初入選作である。サインを漢字で書いている。モデルは、黒田清輝の恋人であったマリア・ビヨー。
左は、≪湖畔≫。
1897年作のこの作品もよく知られた作品。重文である。モデルは、帰国後結婚した黒田夫人。
垂れ幕も、いつの間にか、定着した。
≪婦人像(厨房)≫。
1892年作。モデルは当時の恋人、マリア・ビヨー。
黒田清輝、フランスにあること9年の後、1893年日本へ戻る。
京都へ行く。その時に描いた作品がこれ、≪舞妓≫。今、国の重文である。
黒田清輝、18歳でフランスへ行き、9年間を過ごす。日本へ戻り、日本というものに驚きを感じたようだ。この≪舞妓≫も然り。
1898年の作≪木かげ≫。
重文≪智・感・情≫。1899年の作。
右から智、感、情である。が、よく解らない。黒田清輝、構想画ということを考えていた。しかと構想をめぐらして後描く、ということであろう。
それにしても微妙なポーズの裸婦、”智、感、情”とどのように繋がっているのかは、まったく知らない。
黒田清輝の師、ラファエル・コランの≪フロレアル(花月)≫。
ラファエル・コラン、外光派と呼ばれるアカデミズムの絵描き。黒田清輝の道を決める。
黒田清輝、ジャン・フランソワ・ミレーに惹かれる。
上は、ミレーの≪羊飼いの少女≫。
黒田清輝、ミレー、そしてレンブラントなどの模写にも励んでいる。
黒田清輝がフランスにいた時代は、印象派の時代でもある。
しかし、黒田清輝、印象派とは距離を置く。あくまでもアカデミズムの外光派。
それはそれとし、本展の特筆すべき点は、黒田清輝自身と共にその周りのことごとを網羅していることである。
上は、クロード・モネの≪サンジェルマンの森の下草≫。
ミレーの作は、オルセーから持ってきている。また、浅井忠はじめ同時代の作家たちとの絡みもある。ある作家の回顧展として、今後メルクマールとなるであろう展覧会であった。
ただし、音声ガイドはいただけなかった。綾小路きみまろと山根基世。山根基世はいいとして、綾小路きみまろの起用には違和感がある。日本近代絵画の巨匠を巡る展覧会なんだから、軽くはないんだから。
それはそれとし、ある作家の回顧展として近年出色の展覧会であった。
5時すぎ東博を出た。
と、久しぶり、あのロッケンローラーがいた。この日は女性もいる。
スキンヘッドのリーダーもいる。
色浅黒く彫の深い面貌の恐らくインド系の若い男が、その模様をず〜と撮っていた。
テレビ朝日で、40年前の猪木vsアリ戦の模様が流された。
この日のことはよく覚えている。
食うや食わずの生活から勤め人になって3、4年経ったころであった。この日、たまたま上司の新築祝いに招かれていた。十数人で。猪木とアリの試合、酒を飲みながら見ていた。なんじゃこれって思いながら。
しかし、今、改めて見ると、どこか深く面白い。