ボッティチェリ展。

行ったはいいが、お目当てのところは閉まっていた。仕方がないまた来よう、と思う。しかし、その”また”が来ない。このようなこと、ままあることである。ウフィツィ美術館もそのひとつ。
ずいぶん昔になるがフィレンツェへ行った。もちろんウフィツィ美術館へ行くことが最大目的。が、ウフィツィ美術館は閉まっていた。その少し前に爆弾騒ぎがあり、ウフィツィ美術館もその一部に被害を受けたらしい。で、暫らく閉鎖していた。ボッティチェリの≪春(プリマヴェーラ)≫も≪ヴィーナスの誕生≫も観ることができなかった。
仕方ないまた来よう、と思っていた。が、その”また”が今日まで来なかった。
ボッティチェリは誰にも好まれる絵描きである。私も好き。ボッティチェリが嫌いだという人は、まあいないのじゃないか。洋の東西を問わず。

東京都美術館でのボッティチェリ展。
日伊国交樹立150周年を記念する企画展。
目玉は、≪聖母子(書物の聖母)≫。

上野の東京都美術館、企画展の入口の扱いはいつもこう。時には変化をつけてもよかろうに、と思う。
それはそうとして、ボッティチェリの作品が20点ばかり来ている。その周辺の作品も多く。

ボッティチェリ≪ラーマ家の東方三博士の礼拝≫。
1475/76年頃。テンペラ、板。ウフィツィ美術館蔵。
中央、聖母子の前にひざまずいている男は、ルネサンス期フィレンツェを築いたコジモ・デ・メディチ。この絵には、その他メディチ家の多くの男が描かれている。
そして右端には、この絵を描いたサンドロ・ボッティチェリの姿も。

この男である。
小さなものを拡大したので、モワレが起きているが。
サンドロ・ボッティチェリ、1444/45年生まれと言われる。ということは、この頃は30を少し過ぎた頃。既に自らの工房を構えていた。

ボッティチェリ≪バラ園の聖母≫。
1468/69年頃。テンペラ、板。ウフィツィ美術館蔵。

ボッティチェリ≪書斎の聖アウグスティヌス(聖アウグスティヌスに訪れた幻視)≫。フレスコ画。オニサンティ聖堂蔵。

ボッティチェリ≪美しきシモネッタの肖像≫。
1480−85年頃。テンペラ、板。所蔵先は、なんと、丸紅株式会社。
シモネッタ、ルネサンス期フィレンツェを代表する美女であった、という。23歳という若さで夭折したから、なおのこそ。

ボッティチェリ≪パリスの審判≫。
1485/88年頃。テンペラ、板。
サンドロ・ボッテチェリ、1444年か45年に生まれた。1460年、15歳の頃、フィリッポ・リッピの工房へ入門している。1467年、ヴェロッキオの工房へも参加。1470年、25歳の頃、自らの工房を構える。

ボッティチェリの師・フィリッポ・リッピの≪聖母子≫。
1436年頃、板に移されたテンペラ。

ボッティチェリの師匠のフィリッピ・リッピの息子であるフィリピーノ・リッピ、一時、ボッティチェリ工房の弟子となる。
フィリピーノ・リッピ≪幼児キリストを礼拝する聖母≫。
1478年頃。テンペラ、板。
本展の音声ガイド、ベテラン声優の二人であった。池田秀一と池田昌子。淀みなく、静謐な語りではあるのであるが、ベテラン声優のお名前を知らないということもあり、イマひとつであった。
トンド、円形の作品も多くあった。
東京都美術館、65歳以上には入館料を割り引いている。一般1600円のところ、65歳以上は1000円。
これも日本では少ない。年寄り割引きをやっているところでも、その町や市にすんでいることが条件になっていることが多い。東京都、太っ腹なんだ。

本展の目玉である。
ボッティチェリ≪聖母子(書物の聖母)≫。
1482/83年頃。テンペラ、板。ミラノ、ポルディ・ベッツォーリ美術館蔵。
ところで、ウフィツィ美術館を知らない私のボッティチェリ、その一点はルーヴルにある。
ドゥノン翼を進んだ階段を≪サモトラケのニケ≫を正面に見て上がり、右へ入った部屋に。
ボッティチェリ≪若い婦人に贈物をするヴィーナスと三美神≫。
1480/83年、フレスコ画。
漆喰がところどころ剥げ落ちている。
が、美しい。



今日、3月10日。東京大空襲の日である。
太平洋戦争末期、日本は手酷い攻撃を受けた。
1945年(昭和20年)3月10日、東京は凄まじい空襲、爆撃を受けた。東京の下町、ことごとく焼き尽くされた。
10万人以上の人が死んだ。虐殺である。
今日、今上天皇は祈っておられるであろう。3月10日という時を。