新選組流山本陣跡。

下総流山、日本人なら誰でもが知る二人の男と関わりがある。
ひとりは小林一茶、あとひとりは近藤勇である。
一茶は、流山の醸造家で俳人でもあった秋元双樹のもとへ50回ほど訪ねている。一茶、双樹をパトロンとしていた模様。
これに対し、近藤勇は流山にあること僅か2日。慶応4年(1868年)4月1日夜、近藤勇ら鎮撫隊流山へ転陣、4月3日、近藤勇越谷へ出頭。つまり、近藤勇、流山にあること2日のみ。しかし、この僅か2日の近藤勇の流山滞在が、流山の近藤勇像を創り、流山の近藤勇を全国区としている。

流山電鉄流山駅の近く、流山街道に沿ってこのような看板がある。
左の人物は近藤勇。少し分かりづらいが右の写真の酒びんは「長岡屋」。私が秋元へ買いに行った酒。

慶応4年4月1日夜、約150年ほど前、近藤勇が本陣とした長岡屋の蔵。

「誠」の幟がある。
さまざまな説明板が。

簡潔なものは、これ。

近藤勇陣屋跡、より詳しくは、これ。

より近づくと、お読みいただけるであろう。
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流山、新選組局長・近藤勇と副長・土方歳三、離別の地である。
説明書きを拡大する。

近藤勇が生まれた天保5年(1834年)から明治2年(1869年)までの主なできごと。

新選組の誕生から流山でのことごとまで、こういうことである。
近藤勇、板橋宿で斬首され、あまつさえ臬首される。35歳であった。