ヨコトリ(6) 孤高の格闘技。

第4話へ移る。
森村泰昌は、「たった独りで世界と格闘する重労働」と規定する。

このように。

福岡道雄の作品≪飛ばねばよかった≫。
何やら丸いものが浮かんでいる。

石膏、ロープ、針金、麻布人体。1966年の作。50年近く前の作品なんだ。
福岡道雄ってどういう人なんだ。相当な年寄りであろう。

風船かネギ坊主のようなものが飛んでいる。”飛ばねばよかった”なんだけど。

人も浮遊している。”飛ばねばよかった”ということなのに。
どういうことか。そのようなこと、解からない。解かるワケがない。

一見、黒っぽく見える作品が並ぶ。これも福岡道雄の手になるもの。
FRP、木。これらの平面は、1999年の作。
そのタイトルは、右から≪何もしたくない草花≫、≪僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか・11月≫、≪何もすることがない≫、≪何もすることがない・10月(みみず)≫、というもの。
一見、同じように見える4作品にこのタイトル、理解できるか。できるワケなどない。作家は、理解されようなんて思ってもいない。
己ひとりの中で闘っているんだから。

右端の作品に近づく。
と、”何もしたくない”という文字がビッシリと書かれている。その中に、花の絵がひとつ描かれている。小さな花が。

これは何番目の作品であったろうか。
近づくと、やはり”何もしたくない”という文字がビッシリと記され、その中に小さな花が描かれている。
どういうことかって? そんなことは知るもんか、である。作家・福岡道雄がひとりで闘っているんだから。

床に転がっている球体も、空中に浮かぶ球体も、浮遊する人体も、”何もしたくない”という言葉がビッシリと記された一見真っ黒に見える平面も、すべては福岡道雄の孤高の格闘技が生みだした世界。どのような意味があるのか、問うこと自体、意味がない。
孤高の作家は、ただひとり格闘している。”何もしたくない”、と呟きながら。
これぞ、コンテンポラリー・アートの一極北。