早稲田美研60−70 第7回展 出品録(7)。

美研60−70の今回展、私以外、皆さん力作ぞろいであった。実は、私は困っていた。
幹事の元へ出品と返事をしたものの、何をどう描くか、決まっていなかった。”桜花”を描こう、と決めた後でも描くことはできなかった。
世界堂のネットショップで求めたキャンバスは、翌日には届いた。しかし、描くことができない。描き始めたのは、搬入日まで一週間となった頃である。
一週間をかけ、4点の桜花を描いた。

搬入日、仲間の皆さんが壁面に取りつけてくれた。
桜花4点、タイトルは、≪桜花Ⅰ≫から≪桜花Ⅳ≫。いずれもキャンバスにアクリル。
牧野和春著『櫻の精神史』(昭和53年、牧野出版刊)の「はじめに」に、こういう文言がある。
<桜の花びらのどんなに日本人の暮しと心のなかに深く刻み込まれてきたことか。そして一片の桜花のもたらす千変万化に、人々はなんと心くだいてきたことか。「古今集」以来、花といえば、それは直ちに桜を指した。それほどまでに、桜は日本人の心のなかに・・・・・>、との。

仲間の皆さんが取りつけてくれた後、4点の作品が並んだ写真を撮るのを忘れてしまった。
で、搬入日の前日、やっと描きあがり部屋の床に並べたもので代用する。桜花4態である。
実は、昨年の秋、50年近くぶりに会った男がいる。
その男が言うには、暫らく前から、”流山子雑録”というブログが気になっていたそうである。気にかかる。どこか接点がある、何者かと。昨秋、犬飼三千子の銀座のギャラリー・オカベの個展を紹介した折り、そこを訪れ、犬飼から私のことを聞いたそうだ。メールが来て、新宿で会った。
今回、メールをしたら、早い時間に観に来てくれたようだ。その夜、こういうメールが来ていた。
<・・・・・、君の絵は良いと思います。桜は力量が無いとなかなか絵になりません。何か溢れるものを感じます。何よりも僕が直したいと思うところがありません。二十年程前三、四年に渡って妻のスケッチに付き添って京都、根尾谷、三春、角舘と桜を追いましたが、結局大きいのと小さいの2枚しか妻は絵にしませんでした。桜全体は難しいと思います。・・・・・>、との。
根尾谷の淡墨桜や三春の瀧桜、角館の名木などは見ていない。私は、近所の公園の桜木や千鳥ヶ淵の桜木、それに東博の桜木をモチーフにしたにすぎない。それにもかかわらず過分の言葉、面映ゆい思いがした。

<「あはれ」の系列にたいし「をかし」の系列を認めようとする人もいる。それが清少納言の「枕草子」の位置づけともなっている。「枕草子」にも一二一種の植物が登場するが、三七段では、木の花は、こきもうすきも紅梅。桜は花びらおほきに、葉の色こきが、枝ほそくて咲きたる。・・・・・>(前出の牧野和春著『櫻の精神史』)。

<・・・・・、また、一一六段では、絵にかきおとりするもの なでしこ。菖蒲。桜。とある。桜もまた、絵にかくだけ野暮というものでしょう、と皮肉っているわけであって、そういうしたたかな鑑識眼というものを清少納言は持っていたわけである。だから、・・・・・>(前掲『櫻の精神史』)。

そう言えば犬飼三千子は、今回の私の絵を見て「やまと絵のようね」、と言った。
日本の文化、何から何まで中国からもたらされたものである。絵もしかり。
10世紀前後、平安期までは、”唐絵”であった。奈良時代から平安時代となり、中国・唐からもたらされたものから離れた日本風のものが生まれた。絵の世界では”やまと絵”である。
この4点がどうこうとは言わないが、犬飼の言葉、どこか私には心地よい。

<「花」は、だからこそ、世阿弥においては姿を消す意外には方法がなかったのである。同時に、それ故に姿を消したその花をば、自らが独占できたのである。・・・・・。人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。秘すれば花、秘せねば花なるべからず>(前掲書)。