青もみじ巡り(6) 日本仏教の母山。

延暦寺を表わす言葉の中に、「照千一隅此則国寶」がある。
山内あちこちで見かける。

ここにも。
伝教大師最澄の筆になる『山家学生式』の中の言葉。
「一隅を照らす、これ則ち国寶なり」、との意。

途中、この言葉から付けたという国寶殿へ行った。
もちろん延暦寺、国宝、重文の類いはは多く持っている。しかし、国寶殿の命名の由来は、あくまでも最澄の言葉から、ということらしい。

”道心”も”求法人”も、その延長にあるものであろう。

入口近くのタテカン。

パンフを複写する。
≪五大明王像≫。
7躯 木造 彩色 鎌倉時代(13世紀)。
7躯の像が一具として伝来する延暦寺を代表する仏像の一つ。重文である。

木造維摩居士坐像。やはり、重文。

ところで、延暦寺の境内にはさまざま多くの絵看板がある。その経緯は、このようなこと。

まずは、何と言っても伝教大師最澄のことから。
その(1)は、”ご誕生”である。
読むことができるとは思うが、念のため。こういうことが記されている。
<比叡山の東ふもと坂本の地には、後漢考献帝の子孫で日本に帰化した三津首の一族が久しく栄えていた。ときに神護景雲元年(767)8月18日のこと、阪本の地には蓮華のはながふり、めでたいしるしがあらわれ、おりしも三津首百枝公の家に玉のような男の子が生まれた。のちに日本天台宗比叡山の開祖となる、伝教大師最澄上人であった>、と。
伝教大師最澄の権威づけに、後漢の皇帝の子孫を持ちだしているところ、面白くもあり、おかしくもある。後漢、2000年も前の王朝なんだから。

伝教大師伝(3)は、”仏門に入る”。

伝教大師伝(5)は、”比叡山に入る”。
この後も伝教大師伝、延々と続き、20枚以上に及んでいたような印象がある。

それはそうとして、延暦寺を表わす言葉に、”日本仏教の総合大学”という言葉もある。
特に鎌倉時代、その後の日本の仏教を牽引した仏教者が、ここ延暦寺で学んだ。
<・・・・・、この延暦寺から法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった宗教家たちが、相次いで巣立っている。いずれも鎌倉新仏教を開いた宗祖たちだ。彼らはみな、延暦寺で厳しい修業をしている。この事実も、延暦寺がいかに教育機関としてすぐれていたかを証明しているだろう>、と前述のの書の中で、五木寛之は記す。
これは、浄土宗を開いた法然。

臨済宗を開いた栄西。

法然の弟子で、浄土真宗を開いた親鸞。

曹洞宗を開いた道元。

日蓮宗を開いた日蓮。
この他、空也、良忍、真盛、・・・・・、多くの高僧、名僧が”日本仏教の総合大学”・”延暦寺大学”から輩出された。
比叡山延暦寺、日本仏教の母山である。

こういう絵看板もあった。
”弁慶のひきづり鐘”。
武蔵坊弁慶、比叡山延暦寺を彩るキャラクターの一人である。