ギューチャンとキューティー(補)。

昨日のブログ、<・・・・・その中にギューチャンの名がない>、で終わっている。
途切れている。なんとー。
眠っちゃったんだ。どうも。

頭の中、ボーとしてしまったらしい。この写真のように。
昨日は昼間から酒を飲んでいた。外では深酒をしないが、家では限りなく飲むことがある。ごく稀に。
昔の酒に塗れたギューチャンや、今、アルコール依存症であるらしいその息子・アレックス・空海と同じよう。
だから、<その中にギューチャンの名がない>、で途切れちゃった。
補う。
その後には、こう記したのでは、と思う。酔った頭でなければ。
<東野芳明のクソ野郎、ギューチャンを外しやがって>、と。
しかし、1932年生まれのギューチャン、64年には30を越えていた。ヤングの範疇には、入らなかったのかもしれないが。
それはどうあれ、ギューチャン、そんなことにメゲル男じゃない。われわれと同じ席に座っていた。一般聴衆として。
東野芳明が仕切る討論会の中ほど、ギューチャンが立ちあがった。その手には一枚の紙片が握られていた。
≪ラウシェンバーグからの手紙≫である。
「芸術は模倣だ。イミテーションだ。イミテーション・アートだ」、とギューチャンは叫んだ。
”芸術はイミテーション”、と喝破するギューチャンに惚れなおした。
1969年、ギューチャンはニューヨークへ行く。が、その前に東京画廊で大掛かりな≪花魁≫展を催した。オー、ギューチャン、こうきたか、という。
その後、70年代、80年代は、少し離れていた。厳しいビジネスの最前線にいたので。
京橋のギャラリー山口でのギューチャンの小品展に行くようになったのは、90年代であろうか。ギューチャン、時々日本に帰ってきては小品展をしていたんだ。家賃などを稼ぐために。
そのような頃、ある時、私はギャラリー山口のギューチャン展に入って行った。ギューチャンがいた。なんと、私の顔をじっと見つめている。「顔を描いてやろうか」、という言葉があった。嫌も応もない。描いてもらった。その絵がどこかえへいっちゃった。何度か記したことである。
7年前、2007年、ギューチャンは毎日芸術賞を受賞した。中村吉右衛門などと共に。
その何日か後、ギャラリー山口でギューチャンに会った。
ギューチャンに描いてもらった絵が、どこかへ行ってしまったことを話した。「しょうがねえな」、と言って、ギューチャンはまた私の顔を描いてくれた。バイクに乗った私の。
「この秋、豊田市美術館で大きな展覧会をやるんだ」、と話していた。
その秋のある日、急に思い立って新幹線に飛び乗った。
名古屋から1時間ばかりの豊田市美術館、さすがトヨタの城下町、その佇まい、洗練されたものであった。ギューチャンの巨大な作品が並んでいた。
ギャラリー山口の女主人の自死もあった。このこと、私は、先年死んだ島谷晃からの言葉で知った。山口さんとは、何度か言葉を交わしている。アー、という思いのみ。ギューチャンはその公式ブログで、心のこもった言葉を述べている。
そうではあるが、画廊経営、厳しい、大変なんだ。
今、東京都現代美術館のMOT COLLECTION第2部、「クロニクル1966ー拡張する眼」には、ギューチャンの作品がドンと展示されている。20点近く。5月11日まで。
新宿で居酒屋やカフェーなどの飲食業を展開していた海老忠会館のオーナー・故小國仁さんが、MOTへ寄贈した作品である。
小國仁、あなたは偉い。ギューチャンの作品がこうして残る。あなたは偉い。
それはともかく、今、幾ばくかのゆとり資金をお持ちの人に告げる。
さしたる額でなくともいい。せいぜい数百万程度でも。
ギューチャンの作品を買えばいい。10年か20年後、その資産価値は10倍にはなっているであろう。
ギューチャンとキューティーの物語とはかけ離れた、どうでもいいことではあるが。