1960年。

ギャラリー58、銀座4丁目、和光の裏の通りにあるのだが、古いビルなのでエレベーターがない。東京のど真ん中でもエレベーターがないビルもあるんだ。4階まで階段を上がる。
後もう少しという踊り場に・・・

こういう紙が貼ってある。

階段を上がることはある。
こういうものが待っているのだから。

ギャラリーの入口前には、いろいろなチラシが置いてある。
松濤美術館でのハイレッドセンター展、近代美術館での工藤哲己展、森美術館でのアンディー・ウォーホル展とかの。ギューチャンを追いかけたドキュメンタリー「キューティー&ボクサー」のチラシも。前衛がらみ、コンテンポラリーがらみのもののみ。

階段を上がった廊下の壁には、このような写真が。

ネオダダ・オルガナイザーズ、1960年の春に結成された。新宿百人町の吉村益信のアトリエを拠点として。
1960年4月、銀座画廊でネオダダ・オルガナイザー 第1回展を開いている。
その年の7月、ネオダダ第2回展が新宿百人町の吉村益信のアトリエで開かれる。私は結核療養所を抜けだし、観に行った。
9月には、ネオダダ第3回展が日比谷画廊で。
上の写真、左からその順番で。
ネオダダ、その年の秋には解体する。
僅か半年少し、1年足らずの動きである。しかし、今に至るも、そのインパクトは強いものがある。

こちらの壁には、こういう写真が。

左上にこう記されている。
「安保記念イベント 吉村益信アトリエ 1960年6月18日」と。
1960年、日本は揺れていた。政治の時代であった。
しかし、結核療養所に入っていた私は、世の激動もどこ吹く風、病院のベッドの上で花札を引く日々であった。毎日ノホホンと。
1960年5月19日、新日米安保条約、政府与党により強行採決。その1か月後の6月19日午前0時、自然成立となる。その間の6月15日、国会構内突入をはかる全学連のデモ隊と機動隊との衝突で樺美智子が死ぬ。
私はその後退院し、翌年大学へ入るが、碌なデモはなかった。チンケなものばかり。「俺は安保に遅れたな」、と嘆いた。
それはともかく、ネオダダの連中は、安保が自然成立した1960年6月18日の夜、安保記念のイベントをやっているんだ。”自然成立万歳”ではなかろうが、”この野郎”でもないかもしれない。何だってアクションだってことだったかもしれないが。

「吉村益信アトリエ(革命芸術家のホワイトハウス)」、と記されている。
新宿百人町の吉村益信のアトリエ、磯崎新の処女設計。
結核療養所を抜けだした私が恐る恐る入っていくと、こういうネオダダの連中が屯していた。

中央の写真のキャプションには、”吉村益信アトリエでの会合”とある。車座になって酒を飲むことが会合なんだ。1960年の。
ギャラリー58の女性、とても気持ちのいい人であった。
かっての新宿のホワイトハウス・吉村益信のアトリエが今、喫茶店になっていることや、東京画廊でもギューチャンの展覧会が催されていることを教えてくれた。