高野・熊野・伊勢巡り(25) 那智の滝(続き)。

前方の鳥居に近づく。

那智の滝、那智の大滝、御瀧、飛瀧神社が現われる。

雨が入り、カメラの中曇ってきて不鮮明であるが、銚子口から毎秒1トンの大量の水が流れ落ちる。一段の滝としては、落差日本一である。
また、しばしば日光の華厳の滝と較べられるが、まったく別種。はるかに深い神秘性を持つ。

三島由紀夫著『三熊野詣』に、今一度戻る。
実は、那智大社内庭の後白河上皇御手植えの枝垂れ桜の根元に、優雅な黄楊の女櫛を埋めた藤宮先生、その前に、海の上から那智の滝を見ている。前夜泊まった紀伊勝浦の旅館の番頭の案内で。小船を借りきって。
宿の番頭がこう言う。「あれ、ごらんなさいませ。妙峯山の右に白い一本の縦の線が見えますやろ。あれが那智の瀧で、海の上からこうして・・・・・」、と。
少し後に、<あれが那智の瀧だとすると、自分たちは、遠い神の秘密を、のぞいてはいけない場所からのぞいてしまったといふ感じがする。瀧はあくまで・・・・・>、と続く。
一旦宿へ戻った後、藤宮先生と常子は車でお社の前まで行き、参道の石段を下る。
<今や那智の瀧は眼前にあった。岩に一本立てられた金の御幤が、遠い飛沫を浴びて燦爛とかがやき、凛々しく瀧に立ち向かってゐるやうなその黄金の姿は、おびただしく焚いた薬仙香の煙に隱見してゐる>。
さらに・・・・・
<磨き上げられた鏡のやうな岩壁を、瀧はたえず白煙を滑り降ろし、・・・・・。その白い水煙は、半ばあたりから岩につきあたって、千々に亂れ、じつと見てゐるうちに、・・・・・>、と。
三島由紀夫の記述、まさに、上の写真のような状況ではないか。

<岩壁と瀧とは、下半分はほとんど接してゐないから、瀧の影がその岩の鏡面を、走り動いてゐるのが明瞭に見える>、とも。
この状況は、私とは異なる。
藤宮先生と常子が那智の滝を眼前としたのは、夏の晴れた日である。だから、瀧の影が岩壁を走り動いていた。しかし、私が御瀧を眼前としたのは、秋の雨の日。瀧の影はなかった。
しかし、水煙は走り動いていた。

鳥居の注連縄を通しての御瀧。

左の方に、赤い欄干が見える。
より近くで那智の滝を見る、いや拝む、飛瀧神社の拝所である。

すぐ後ろの御瀧をバックに、皆さん写真を撮っている。

根津美術館所蔵の国宝≪那智瀧図≫、鎌倉時代、13〜14世紀の作、と言われる。作者は不詳。
しかし、このような情景を描いたもの。
≪那智瀧図≫に触れる人、おしなべて、1974年のアンドレ・マルローに触れている。
アンドレ・マルロー、根津美術館で≪那智瀧図≫を観る。マルロー、≪那智瀧図≫に神を感じる。そして、熊野、那智へ行き、那智の滝と対面する。
そうであろう、と思う。インドシナでの、『王道』のマルローならば。

唐突であるが、実は私、産経新聞が好きである。
産経、5大紙の一つではあるが、朝毎読の3大紙とは少し違う、と思われている。朝毎読の3大紙でも、毎日は朝日と読売に大きく水を開けられているのだが。だから私、3大紙では、朝読よりは、毎日に思い入れがある。
それはともかくとし、産経新聞文化部編著『日本を探す』(産経新聞出版、平成20年刊)という書がある。産経新聞の記者がジャンルにとらわれず、これぞ日本、ということを追っている。
堀晃和という産経の記者が熊野古道について書いている。マルローのことも出てくるが、その中に驚くべきことが記されている。こういうものである。
<実は今から十数年前、滝の存在が危ぶまれるような事態があったという。大滝の背後には原生林が広がり、「那智四十八滝」と称される多くの滝が点在している。ところが、大滝の上の国有林を切る計画が持ち上がったのだ。木を切り出せば滝が涸れる>。結局、その計画は撤回されたそうである。
それにしても、何ということを考えるヤツがいるんだ。那智の滝が涸れるであろうことを考えるなんて、万死に値する。

拝所から出、暫らく歩いた後、振りかえった。
樹々の向うに御瀧が白く見えた。

石段を上り飛瀧神社の入口へ戻ってくると、横の方にこのような看板があった。
しかし、時折り強まる雨、デジカメ内にも蓄積し、ボーの範囲が広くなっている。
でも、落差・・・133m、銚子口の幅・・・13m、滝壷の深さ・・・10mは、読むことができる。他は知らず。