高野・熊野・伊勢巡り(15) 熊野速玉大社(続き)。

熊野速玉大社、、とてもカラフル。

緑の格子を通し中を見る。

それにしても、とてもカラフル。

向うの方に、大勢の人が集まっているところがある。

上皇や女院、やんごとなきお方の熊野御幸の一覧である。

宇多上皇から玄輝門院まで(碑文の一覧とは少し異なっているが、さしたることではない)、院政期の約400年の間に、23方による延べ140回に及ぶ熊野御幸が行なわれている。
白河上皇の御幸の例が記されている。総人数814人、一日の食糧16石2斗8升、伝馬185匹、・・・・・、と。すごい。
京都から大坂を通り紀伊田辺へ、そこから中辺路を通り熊野本宮へ。本宮大社から速玉大社へ参り、那智大社へ、というのが熊野御幸。すさまじいエネルギーを要するものであったであろう。

その熊野御幸、一度のみという上皇も多い中、鳥羽上皇が23度、後鳥羽上皇が29度、後白河上皇にいたっては33度も行なっている。
何故か?
何日か前、本宮大社のところで記した小山靖憲著『吉野・高野・熊野をゆく 霊場と参詣の道』に、こういう記述がある。
<上皇・女院や貴族の間で熊野詣が大流行するのは、白河法皇の第ニ回参詣以降で、鳥羽上皇の時代には熊野詣が準国家的な年中行事となり、また複数の上皇・女院が同時に参詣する両院御幸・三院御幸もおこなわれ大規模化した>、と。
なるほど、熊野御幸、準国家的な行事であったんだ。

速玉大社の境内には、その29度もの熊野御幸を行なった後鳥羽上皇の御製の碑もある。
     岩にむす こけふみならす みくまのヽ 山のかひある 行末もかな

境内には、こういう石碑もあった。「熊野詣 奉八度の記念碑」。
碑にはこういうことが刻されている、と説明書きにある。
奥州南部八戸の吉田金右衛門という男が、宝永五年(1708年)に8度目の熊野詣を記念して建てたものである、と。
中世の大勢の人を引き連れた上皇や女院の御幸も、難行苦行の旅であったであろう。が、時代が下った江戸期とはいえ、八戸から熊野まで8度も詣でた吉田金右衛門の旅も、なかなかのものではなかったか。

あやうく見落としてしまうところであったが、こういう碑もあった。佐藤春夫の句碑。
     秋晴れよ 丹鶴城址 児に見せむ     春夫
丹鶴城址は、紀州徳川家家老であった水野家の居城あと、と説明書きにある。速玉大社参道のすぐ前で、佐藤春夫の生家もすぐ近く。


堤清二が死んだ。
父親、兄弟、並みの世界ではない堤家の愛憎劇は、すさまじいものがあった。文学者・辻井喬としては、文化功労者ともなった。経営者としては、セゾン・グループを作り、破綻させた。
しかし、堤清二と聞くと、思い出すことがひとつある。
堤清二、西武デパートの中に、西武美術館を作った。コンテンポラリー・アートに特化した美術館。後、セゾン美術館と名を変えたが、日本のデパートの美術館の中では傑出したものであった。四半世紀続いたが、1999年、幕を閉じた。
西武美術館・セゾン美術館に思い入れのある人、多いのではなかろうか。私も、そうである。
堤清二、毀誉褒貶、さまざまにある男である。が、他の美術館を圧する西武美術館を作った、という一事だけで記憶に残る。
今では死語となった「メセナ」という言葉が、頭に浮かぶ。