高野・熊野・伊勢巡り(12) 熊野本宮大社(続き)。

高野も熊野も、「野」という語がつく。これに吉野を加えた「野」がつく三つの地、いずれも古来からの霊場である。
<しかし、「野」は未開地をさす語と考えれば、共通した性格が理解される。・・・・・また熊野の「熊」は隈の意で、熊野は「奥まった野」=奥まったところにある未開地、を意味している>、と小山靖憲著『吉野・高野・熊野をゆく 霊場と参詣の道』(2004年、朝日新聞社刊)にある。
さらに、<また、金峯山・高野山・熊野三山への皇族や貴族の参詣は、これら三霊場を「浄土の地」とみなす思想(浄土教)にもとづくものであった>、とも。
その熊野三山の中心、熊野本宮大社の上四社の域内へ入ったら、こういう看板。

黄色い線で囲まれたところは、まだ工事中。

社殿の屋根の葺替えは終わっているが、鈴門や瑞垣の屋根はシートの中。
よし、第一殿から第四殿まで見えるところだけをすべて撮ってやろう、と考えた。
先ずは、熊野本宮大社の主殿・本社である第三殿から。

第三殿。
本宮大社の主殿である證誠殿。
主祭神は家津御子大神。本地仏は阿弥陀如来である。
なお、本地とは、日本のさまざまな神はさまざまな仏が姿を変えて現われたもの、とする本地垂迹(すいじゃく)の考え方。神仏習合思想のひとつである。

その第三殿、證誠殿のシートがかけられていなく、見えているところ。鈴門。
豊島修著『死の国・熊野 日本人の聖地信仰』(講談社現代新書、1992年刊)に、こういう記述がある。少し長くなるが、引いてみる。
<その特別の信仰というのは、阿弥陀如来を拝むと「極楽往生」ができる、という信仰であった。平安後期から鎌倉前期の上皇の熊野御幸 は、本宮の本地・阿弥陀如来の宝前にぬかずき、幣を奉り、経供養をすることを最大の目的としていた。それほどに古代末から中世の権門貴族や武士・庶民層にいたる熊野詣は、本宮「證誠殿」の参詣を目的としていたのである>、と。
熊野三山の中心である本宮大社、その本宮大社の中核が、この第三殿である證誠殿なんだ。
以下、参拝順路に倣って、第二、第一、第四の社殿へ参る。

第二殿。
御祭神は速玉大神。本地仏は薬師如来。

その鈴門。

第一殿。
御祭神は夫須美大神。本地仏は千手観音。

その鈴門。
見えている鈴門、どれも同じようなものじゃないか、と思われる方もおられよう。でも、違うんだ。
霊気が違う。その場に立つと、霊気が異なる。

第四殿である。
御祭神は天照大神。本地仏は十一面観音。

その鈴門。
何らかの”気”が異なる。

上四社の横の方に、このお社があった。
満山社。結びの神、八百萬の神だそうである。コンビニエントな神様である。

その内、10数人の団体が来た。茶色っぽい作務衣のようなものを着た先頭の男が率いている。
と、全員で揃って般若心経を唱えはじめた。
”神仏習合”、ということを実感する。

後、宝物殿へ入った。
銅鏡や能面、絵図や刀が展示されていた。さしたる印象はない。

バス停の所まで下りてくる。少し先にこのような看板がある。

畑の中にこのような大きな鳥居が現われる。高さ約34メートル、幅約42メートル、日本最大の鳥居である。
大斎原(おおゆのはら)である。
大斎原って何なんだ。こういうことなんだ。

本宮大社の参道の途中に、このような案内板があった。
明治22年以前の本宮御社殿の絵図なんだ。

熊野本宮大社、明治22年までは熊野川の中州にあったんだ。
それが、明治22年の台風で流される。しかし、上四社のみが残った模様。それを現在地へ移築したそうだ。
それ故、昨年は”正遷座120年大祭が行なわれたそうである。

今、旧熊野本宮大社があった熊野川の中州の大斎原、その周りはこのような光景。
とても穏やか、心休まる光景である。