光田節子展 何処かへは知らず飛びたった。

京都、地下鉄東西線の東山で降り、三条通りを3〜40メートル歩くと神宮道に当たる。

神宮道、平安神宮の大鳥居から真っすぐ延びている道。幾つものギャラリーが軒を連ねる。
大鳥居の左右に京都市美術館と京都国立近代美術館があるためであろう、とこの日すぐ後に会った光田節子は言う。

神宮道の大鳥居に近い所に、ギャラリー青い風はある。

ひと月近く前になろうか、光田節子から個展の案内ハガキが来た。
<画廊のオーナーに押されて・・・・・、相変わらずの絵です>、と記されていた。
丁度、関西へ行く用がある。光田の個展を観に一日早く出発した。

これは、今年春先の国立新美術館での新槐樹社展への出展作。
≪私の山≫の「あか」と「あお」。80号。
どうして新槐樹社展への例年の出展作のタイトル、「私の山」なのか、光田節子へ聞いた。返事はこう。
ずっと山の絵を描いていた。初めの頃は、関西の山を。何年か前から、誘ってくれる人がいて、年末の4〜5日、富士山へ行っている。忍野あたりの民宿に泊まり、富士山をスケッチしている、と。
ある時、富士山の絵から稜線を取り払った、と言う。マーク・ロスコに絡めてのことであろう。何と、それで不可思議色の作者となっていたんだな、おそらく。
「山を描いている人、多くいるでしょう」、と光田は言う。特に、富士山は。北斎、広重はじめ多くの絵描きが挑んでいる。それで、稜線が消えても光田節子の山、「私の山」なんだ。

80号の新槐樹社展への出品作が4点、それ以外は20号の作品が20点近く並ぶ。

2部屋が繋がっているというか、大きな部屋の中に間仕切りがあるというか、壁面はかなりある。

20号の新作、ここ何年かの新槐樹社展で観た作品とはどこか違う。いや、明らかに異なる。明るい作品。とてもカラフルなものもある。

透明水彩を用いた光田の作品、今までの深い沼の底から、何か新鮮で明るいものが湧きだしてきたようである。

「私の山」というタイトルの深い深い沼、そこから何かが湧きだしたんだ。それぞれの作品のタイトルもほとんど、≪作品1≫とか≪作品2≫とか、と「作品」の後に番号が打たれている。

タイトルは、≪私の花Ⅰ≫。オッ、「花」だ。
幾つかの色彩が、混じり合わずにそれぞれを主張しているよう。だから鮮やか。色の炸裂。沼の中ではない。

この作品のタイトルも、≪私の花Ⅱ≫。
光田節子の作品、3年間観ているが、「花」の字を見たのは初めてである。

≪作品10≫
光田節子、マーク・ロスコを追う人である。なるほどロスコだな、と思われる印象があった。
「求道者」と記したこともある。ここ3年間、国立新美術館での新槐樹社展での出品作を観る度に、「ウーン」と唸っていたからである。前年の作品と、いや、前々年の作品とどう違うのか、とつい思ってしまう故である。
今年春先の新槐樹社展について触れた折りには、アサビの研究科のボス・早見尭のこういう言葉を引用した。<・・・・・だから天啓のアイデアを手に入れてからのアーティストの作品はワンパターンになる。・・・・・>、という言葉を。ひょっとして光田節子、気を悪くするかもしれないな、と思いつつも。まあ、その時は、その内何かの折りに会った時、話せばいい、と。
だから、今回の個展の作品、こういう変化を遂げているとは思っていなかった。

≪作品9≫。
透明水彩に岩絵の具を使ってみた、とのこと。面白い。お不動さまのようだ。

作品番号は不明であるが、銀粉を使っている。
上の方にライトが写りこんでいるが、透明水彩に溶けこんだ銀粉、不思議な効果を醸しだしている。
銀粉は、西陣織りの職人が、仕事をやめる時にくれたんだ、と光田は話す。西陣もバブルの頃は凄いものの需要があったんだが、今はそうじゃなくなったと言っていた、とも光田は話す。

≪作品1≫。
これにも銀粉が使われているようだ。京都にはいろんな世界があり面白い、と光田。

≪作品4≫。
光田節子の創造、その根底にはマーク・ロスコがあるのであろう。しかし、マーク・ロスコの水平と垂直の線で囲まれた矩形に色、という場から飛びたったのではないか、とも思う。こういう作品を観ていると。
何処かへは知らず飛びたったんだ。

右側の女性が光田節子。
とてもパワフル。


関西のあちこち、少し巡りました。
暫らく、関西歩きを続けます。