昭和20年の風太郎。

<今から考えて、正気の沙汰ではない思想もあるし、見当ちがいの滑稽な判断もあるし、前後に矛盾撞着もあるし、「日記は自分との対話」だとはいうものの、当然年齢相応の、青くさい、稚拙な、そのくせショッた、ひとさまから見れば噴飯物の観察や意見もある>、と「あとがき」に山田風太郎は記している。
大正11年(1922年)生まれの山田風太郎は、いわば戦中派。「戦中派○○日記」というシリーズがあるが、『戦中派不戦日記』(講談社文庫、昭和60年刊。なお、同書の最初の刊行は、昭和46年、番町書房刊)は、昭和20年(1945年)終戦の年の日記である。山田風太郎、終戦時23歳。
なお、「不戦日記」の「不戦」とは、「不戦の誓い」というような使われ方の「不戦」とは違い、「戦わなかった」という意味合いの「不戦」である、と山田風太郎は記している。<最も「死にどき」の年代にありながら・・・・・>、と。
もっとも山田風太郎、徴兵検査は丙種合格であり、東京医専(今の東京医大)の医学生でもあった故。
1月1日 <○運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ>。
『戦中派不戦日記』、23歳の青年の行動、考えたことごと、連日詳細に記される。
3月10日の東京大空襲については、
<○午前零時ごろより三時ごろにかけ、B29約百五十機、夜間爆撃。東方の空血の如く燃え、凄惨言語に絶す。・・・・・>。
6月14日、学校は信州飯田に疎開するとの告示があり、6月25日、新宿から発つ。
<午前十時十分、中央線にて新宿発。混雑言語に絶し、通路はおろかみな座席に立つ。・・・・・>。医大の疎開、40個の顕微鏡も持って行っている。
不思議な感じもするが、講義は連日行われている。それと並行して山田風太郎青年は、小説が多いが、連日、本をよく読む。バルザック、スタンダール、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、チェーホフ、ゴーゴリ、・・・・・。森鴎外や永井荷風も読むが、圧倒的に多く読んでいるのは欧州文学。中でもフランスとロシアの作家のもの。
8月6日の広島への原爆投下に関しては、8月8日に出てくる。
<○広島空襲に関する大本営発表。来襲せる敵は少数機とあり。百機五百機数千機来襲するも、その発表は各地方軍管区に委せて黙せし大本営が。今次少数機の攻撃を愕然として報ぜしは、敵が新型爆弾を使用せるによる>、と。
少数機の来襲であるにもかかわらず、それを報じた大本営の発表、また、新型爆弾の何たるか、山田風太郎は何となく掴んでいるような感じである。
さすが風太郎、お主分かっているな、と思う。と、8月14日にはウヌー、という記述が現われる。
この日の風太郎の日記は長文である。それが、山田風太郎がこの書の「あとがき」に記した如く、あちこち矛盾が現われることごとが記される。
<○国難! 幼い日にきいたこの言葉は、何という壮絶な響を含んでいたろうか>、と書き出される。
<僕は日本を顧みる。国民はどうであるか?・・・・・政府はどうであるか?>。<アメリカが日本人を十万人殺せば、日本はアメリカ人を十万人殺す。そうすれば日本は必ず勝つ。・・・・・>。
<新兵器なく、しかもかかるアメリカ人を敵として、なお敗れない道が他にあるか? ある。ただ一つある。それは日本人の「不撓不屈」の戦う意志、それ一つである>、とも。
そして、こういうことが記される。
<然らば、彼らは無際限の殺戮戦に耐えられようか。・・・・・。日本人はもう三年辛抱すればよいのだ。もう三十六ヵ月、もう一千日ばかり殺し合いに耐えればいいのだ>。<原子爆弾に対しては、徹底的に山岳森林に全国民を分散し、死物狂いで深い濠を掘ればよい。・・・・・。あと千日耐えよ。血と涙にむせびつつも耐えよ>、と。
この書の「あとがき」の中で、「正気の沙汰ではない・・・・・」とか、「見当ちがいの滑稽な・・・・・」、と記していること、このようなところのことであろうか。
玉音放送を聞いた8月15日の記述は、ただ1行のみ。
<○帝国ツイニ敵ニ屈す>、と。
万感の思いがあったことと思われる。その翌日、8月16日には、長文の日記が記される。400字詰め原稿用紙にすると、40枚程度の。
<「最後の一兵まで戦え」 陛下のこのお言葉あれば、まさに全日本人は歓喜の叫びを発しつつ、その通り最後の一兵まで戦うであろう>。<臥薪嘗胆! けれど、日本人は「百年後の十二月八日」を心魂に刻みつけて待つであろう>。
また、<天皇はどうなるか、御退位は必定と見られるが、或いはそれ以上のことも起こるかも知れない>、とも。
<夜ラジオ、阿南陸相の割腹を伝う。遺書に曰く、
「一死以て大罪を謝し奉る。
 神州不滅を確信しつつ。
 大君の深き恵にあみし身は言いのこすべき言の葉もなし。
 昭和二十年八月十日夜
     陸軍大臣阿南惟幾
大将よ、御身の魂は千載に生く>、と。
そして、こう続ける。
<また敢て思う。敵より見て戦争犯罪者として処刑さるる怖れのある人々、ことごとく先んじて自決すべしと>、と記している。
この戦犯容疑者は、逮捕される前に自らの手で死んでもらいたい、自死すべきだ、ということ、この後度々出てくる。だから、逮捕状の出た9月12日の東条英機のピストルによる自殺未遂については、厳しいことを書いている。
<なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか>、と。厳しい。東条英機、最後まで昭和天皇を守り抜いたんだが。
実は、不思議なことに、山田風太郎の『戦中派不戦日記』には、その昭和天皇とマッカーサーの会見についての記載がない。
会見当日の9月27日もその後の日にも。
ただ、9月27日の日記には、このようなことも記されている。
<林語堂が「日本人の独善的神秘感を捨てよ、天皇が神ではないことは天皇自らが知っておられる」云々と、日本人のための・・・・・。まじめに考えるとこれは傾聴に値する。たとえ彼が為にするの念を以ていったとしても、これは日本人の為に傾聴に値する>、という天皇に関する一節、林語堂の言葉が記されている。
これは何を意味するのか。
以前、山田風太郎の「昭和の番付」を記したことがある。昭和の美女番付とか何とかを。そこに、「日本を亡国の運命に追い込んだめんめん」の番付があった。
2番目は近衛文麿、3番目は石原莞爾、4番目は東条英機、5番目は山本五十六。アレッ1番目は、って1番目が抜けているんだ。
「日本再起の立役者」番付もあった。吉田茂とか古橋広之進とかと。こちらの1番目も抜けているんだ。
日本を亡国の運命に追い込んだ1番目の人、そして、日本再生の立役者の1番目の人、同一人物だな、と私は睨んでいる。山田風太郎の筆致からすれば。
正負ともに第一の昭和の日本人は、決まっている。とても人間らしいお方であられた、という印象を持っている。
山田風太郎もそういう思いを持っていたようであるな。