米兵25万人。

今日、長崎原爆忌。

今日の長崎平和公園。

今日の浦上天主堂の被曝マリア。

夜9時のNHKニュースに、終戦直後の8月19日に、長崎へ入った科学者が撮影した写真33点が出てきた、という映像が流れた。
後に気象学者となる藤田哲也博士という人だそうだ。今、自分にできることは記録を残すことだ、と考えていたようだ。

被曝後わずか10日余りの長崎。
撮影は禁止されていたそうだ。だから貴重な映像、とテロップが流れる。

”科学者の思い”とある。
「原爆がどういうふうに炸裂し、爆風がどうやってきて物を壊し、人の命を奪ったのかを・・・・・」、と長崎原爆資料館の学芸員は話す。
しかし、ここに、被曝後10日ではなく、被爆直後、その日に撮影された広島の写真がある。
1997年、広島の原爆資料館(広島平和記念資料館)で求めたもの。確かあるはず、と探したら出てきた。
実は、ここ数日、トルーマンのことを考えている。
アメリカ合衆国第33代大統領・ハリー・トルーマンのことである。広島と長崎へ原爆を落としたトルーマンの論理は、と。その論理は、那辺にありや、と。
よく知られたトルーマンの論理はこう。
なぜジャップは降伏しないんだ。日本への上陸作戦には150万の兵力がいる。その内、25万人のアメリカの兵士が死ぬ。それを回避するには、日本の二つの都市に原爆を落しゃいい、というもの。
米兵25万人が、広島と長崎の一般市民が死ぬ数とつり合う、という論理。
だからこそトルーマン、広島と長崎への原爆投下を承認した。アイゼンハワーもマッカーサーも、その必要はなかった、と言っていることを。
ならば、米兵25万人と秤にかけられた広島の状況を出してやろう。

『被曝の遺言 被災カメラマン写真集』。
昭和60年発行。発行人は広島原爆被災撮影者の会。昭和20年8月6日、広島にいたカメラマン20人が撮った写真である。生々しい。私が持つのは平成9年の英文併記版である。

昭和20年8月6日 8時15分。原子雲。

左の写真には、「昭和20年8月6日炸裂後2〜3分」とのキャプションがある。
「爆発閃光、飛行機は猛スピードで逃げる。異様な色を放って雲の柱がたちのぼった。爆音と爆風がきた」、という当時18歳、中国新聞社勤務の山田精三さんの言葉がある。

左上は、8月6日の炸裂直後、爆心地から4.5キロから撮影したもの。撮影者は、陸軍船舶練習部写真班員であった木村権一さん。
右の3枚は、爆心地から約8キロからのもの。原爆炸裂後2分。撮影者は、当時32歳、中国新聞社写真部員であり、広島師団司令部報道班員でもある松重美人さん。松重さんは、この写真集のまとめ役、広島原爆被災撮影者の会の代表でもある。

被曝当日、8月6日の模様。
右は、爆心地から2.3キロ、午前11時すぎの頃、とキャプションにある。

左は、6日午後5時頃、爆心地から2.4キロ。右は、8月7日、爆心地から500メートル。”余燼がまだ熱かった”、とキャプションにある。
90ページに満たないモノクロの写真集である。
米兵25万人の命と引きかえに、広島と長崎へ原爆を落としたトルーマンの論理、癪だからこの写真集の全ページを複写してやろうか、と考えた。
が、それはやめた。
焼酎を飲んでいる内に、写真のキャプションを引用することさえ面倒になってきた。
この後は、写真を複写したもののみを載せる。
それが如何なるものか、大まかにはお解かりいただけるであろう。精巧なルーペがあれば、それぞれのキャプションもお読みいただけるかもしれない。












しかし、何故にトルーマン、広島と長崎に原爆を落した。
国体護持、天皇の訴追さえ回避されれば降伏する、という状況にあったにも関わらず。
米兵25万人と引きかえにか。
トルーマン、こう思っていた。「何故にジャップ、降伏しないんだ。これほどに叩いても。ジャップ、理性的でもない。論理的でもない。日本は文明国ではない。ヘンな奴らだ」、と。
それより何より許せないのは、パールハーバーへの奇襲だ。しかも、宣戦布告もない闇打ち。
実は、トルーマンの心情、そればかりじゃないこともある。
でも、もう眠くなった。そういうこととしておく。