谷中ぶらぶら、雨ポツポツ(9) 下谷区初音町。

旧吉田屋酒店を出た後、Sさん、「コーヒーを飲みましょうか」、と言う。私も少し休みたかった。少し休憩を、という感じを察してくれたのか。
旧吉田屋酒店は上野桜木の交差点の角にある。その交差点を渡ったすぐの喫茶店に入った。店内はすっきりとした感じ。ンッ、と思ったのは、店の女の子の化粧。前髪を切り揃えている。真っ赤な口紅。レトロ感が漂う。昭和初期のモガではないか。
Sさんからは、何の説明もなかった。Sさんにとっては、通常の喫茶店のひとつ。しかし、この喫茶店、谷中散策の人たち、特に女性の間には人気の店だそうだ。後で知った。私も、ンッ、とは思ったが、写真も撮らなかった。店自体、古い民家なんだが。
そこでコーヒーを飲んで少し休み、三崎坂の方へ歩く。

岡埜榮泉。
味がある建物。和菓子屋である。

横道へも入る。川口松太郎の名作『愛染かつら』ゆかりの愛染堂・自性院。

これは法蔵院であったか。
時節柄、紫陽花が目につく。

谷中四丁目の標識。
ここらに来ると、Sさん、こう言う。「僕は、このあたりに来ますと、目をつむってても歩けます」、と。この近くで生まれ、育った、と言う。
「今は、谷中4丁目とか6丁目とかと言っていますが、僕が小さな頃は、初音町と言ったのです」、とSさんは話す。「風情のある名前でした」、とつけ加える。
「そうですか、台東区初音町だったんですか」、と言うと、「いえ、台東区ではなく、下谷区初音町でした」、とSさんは言う。下谷区初音町か。イキだな。
このあたり、鶯の初音が聴こえる粋な町だったんだ。
小さな寺が多い中、Sさん、跳ねるように歩いていく。

「このお寺、今はこんな色の屋根ですが、僕が子供の頃は、塀をよじ登り・・・・・、と話す。いたずら小僧だったんだ。

久成院。「このお寺のお坊さんに・・・・・」、とSさん話す。ワルさをしていたらしい。

日本美術院のモノトーン建物の前を通り、瑞輪寺の前へ出る。
こういう掲示がある。

大久保主水の墓。

大久保主水、こういう人なんだ。
<水は濁らざるを尊しとして「モント」と・・・・・>、と。
家康も粋じゃないか。

途中にこういう井戸があった。今はふたされている。Sさん、こう言う。
「僕が子供の頃は、つるべの井戸だったのです」。そして続ける。「僕が小さな頃、この井戸に落っこちたヤツがいました。結局助かりましたが、大騒ぎになりました」、と。

瑞輪寺を出る時、Sさん、山門の右側の柱を撫でてこう言う。
「幼稚園の頃、いたずらでドロを放りこんだことがあります。先生に見つかりました。この門の柱のところにつれていかれました。こっぴどく怒られる、と思いました。ところが先生はこう言うのです。悪いことををしてはいけませんよ。良いことをするのです、と。女の先生でした。今でもよく覚えています」、と。
70年前の話である。その時の女の先生、ご存命ではなかろうが、いい人、いい話である。
下谷区初音町。粋な響きのこの町のこと、明日も追ってみよう。